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観客。

『高瀬舟』森鴎外

いまさらに、ちょっとはまった。
森鴎外の筆致の精確な故のしなやかさ。


これを最初に読んだのは、小学校の4年か5年のときだ。仮名遣いや漢字だけ易しくした子供向けの文学全集だった。
このような……やむをえざる、親しきがゆえの、殺人、というものに初めて触れたのだと思うし、印象は強かったのだろう。
静かに進む高瀬舟を包む夜の風景が、そのとき以来脳裏に染み付いているから。
水音も、話し声もしない静謐だ。
罪人が語る声もあるはずなのだが、それは内耳に直接、やわらかに当たってくる。


たぶん、十代のどこかの時期にもう一度読んだ。そのときは退屈に感じた。この小説の「問題提起」は、すでに知っている、他のものでも見るようになった、と思ったのだ。
浅はかだのう。


20代のころ、近代文学をよく読んだが、そのころは漱石の方がだんぜん好きだった。いまでも漱石は好きだが、自己の葛藤を自己の葛藤として描かない鴎外のスタイルも好きになった。


昨年、ふとしたことで読み返した。
おどろくほど鮮やかで、記憶の中のものと同じ話とは思えなかった。あの、夜の川の風景は変わらないけれども……ハイビジョンになった!?ようにはっきりと見え……。


弟の「喉」の場面、あれはこれほどに書き込まれていたとは記憶は語らなかった。無駄がないと思われるのに執拗と感じられる記述。
ここがこれほどまでに書き込まれていたのは……。


この小説が、当時としては新しい「安楽死」に関する問題提起の役割を担った、と知識は言う。
そのために、この状況と心情は、語られ、訴えられなければならなかった。
それはそうだ。
だが、現代に読むときに、「安楽死」はすでにこのときのような「問題提起」の時期を過ぎている。現代として未だ考え、選択していくべき命題でありつづけているけれども、このときとは違う。現代ではこれは殺人ではなく自殺幇助だし、情状酌量もあるだろう。


それでも、この場面の描写は意味を失わない。
現代の「豊かな」日本の人間が読むときに、驚きをもってむかえることがある。この兄があれだけの凄惨な場で弟を手にかける苦痛を乗り越えて、そして罪を受け入れつつ……わずかな金、彼にとっては初めての大金を手にすることを、素直に静かに喜んでいることだ。それを元手に自分で商売を始められることを、それまで使われる一方の側だった人間として、喜び、感謝していることだ。
この素直さ、静かさをきわだたせるためにも、あの「喉」の場面の細密な描写は必要であったのだ。


もちろん、彼のこの素直さは当時の読者層にとっても驚きであったろうしそのように書かれているのだけれども、現代人にとっての方がもっと理解の困難な……美しさだろう。


美しさであり、健康さであるかもしれない。


ああ、漱石なら、うらやましがるかもしれないね。



山椒大夫・高瀬舟 他四編 (岩波文庫 緑 5-7)

山椒大夫・高瀬舟 他四編 (岩波文庫 緑 5-7)