観た!

観客。

「佐倉義民傳」

シアター・コクーン 2010.6.10  18:00開演


おもしろうて、最初から最後までズッシリと凄い。


コクーン歌舞伎の今年の演目を見たとき、またずいぶんジミなのを持ってきたな、と思った。
ちょうど歌舞伎を見たことがない友人に一度見せようと思っていたこともあり、あらあら初心者向けじゃないねえ、と思った(で、初心者でない友人と行った)。komugiko00は、この演目は初めて観る。


芝居はまず、佐倉の殿様とおぼしき人物が、座敷で紫の鉢巻で乱心の体でいるところから始まる。「桜が咲かない」と苦にし、妻子の死を恐れ、「あの男の恨みだ」と。
金張りの襖があるので座敷だと認識するが、足元は土。
(ステージの上に、土の入った長方形の木枠が二つあり、これを人力で動かすのが今回の基盤になる舞台装置)。


あとはご存知(?)惣五郎の物語。土臭い、底辺の農民たちとバカのように義を通す名主の物語だ。(だが、もちろん、コクーン歌舞伎は脚本が違う。もっとイマだ)。
宗吾は一揆を抑える。
一揆を起こしても民が処刑されるだけだという事実認識と、「お上にも慈悲はある」と信じているから。「慈悲はある」という表現だが、見ていると、「支配者にも理は通る」という意味だと思われる。
しかし、事態は彼の信念を裏切り続ける。



今回、「音」の効果が強かったと思う。
農民がラップで語る。
歌舞伎でよく狂言などが果たす、間のあらすじ説明の部分などである。
和楽器に乗せ、聞き取りやすくか遅めのテンポで、日本の農民らしく腰の重い調子のラップ。
これが非常に劇に合っている。
ラップがもともと抑圧された層のものであったとすれば、これこそが正しく日本のラップかもしれない、と思わせる。


下手に和楽器、上手に洋楽器のブースを配置し、それぞれが必要なときに鳴り、絡み、静寂もある。
つけが入るタイミングで電気ギターがはじかれるところなども絶妙。
以前『三人吉三』のときに電気音の音楽使用に不満があったのが、今回は完璧。



宗吾が裏切られ続ける要因を、芝居の中で作るのは……宗吾に理念として共感するが実行力と意志力が欠落したトノサマ、トノと百姓のある意味板ばさみになり、ある意味うまい汁と安定を図る家老、そして由井正雪を騙る大道芸人駿河弥五衛門はただ宗吾のまっとうさが疎ましくてならない。


これらの人物造詣が興味深い。
このご時世なので、つい現実と重ね合わせた。


この殿様はもうかなりの部分で鳩山首相に見えてしまった。shinbashiが鳩山について言っていた。「彼は理想だけを語っていたという点で、稀有な首相だ」。そのとおり。その部分は評価してやってもいいんじゃないか。理想はちゃんと持っているのだ。でも、実行力がだめだめだったよね。そしてたぶん、彼の理想と実行の間に、いろんな「家老」も挟まっていただろう(連立与党の党首たち始め、komugiko00には見えてない人々。まあ、この話にはない強大な異国もあったりするけど)。殿様は宗吾に民を助けることを約束する。だが約束を果たさなかった。
宗吾が直訴しに行くと、立派な男だ、そのとおりだと感じ入る殿様にうそはないし、ハトもたぶんそういう点では同じだと思う。ただそのあとが…という。

これ、脚本最初からこうだったのかなあ、それとも社会の動きにあわせて多少変えたかしらん。


家老はそのまんま、政治家や官僚の悪しき面。(私はそういう職業の人々をなんでも悪く言うのはイヤ。だれだって理想や良心はあるのだ。それを現実との兼ね合いの中で、どれほどバランスをとって持ち続けられるか、というのは、庶民だって同じことである。まあ政治家や官僚は「うまい汁を吸う」ことをしようとすると庶民よりもでかくやりやすいだけ。人間性が違うわけじゃない。政治家や官僚を悪く言って自分は棚に上がって平気でいる庶民もたいがいのもんっすよ)。


客にとって、「主人公の側に立てば腹立たしいが、魅力的な人物」が駿河
正雪や天草四郎などと芝居口調で口走るあたり(前者はまんまと佐倉の民をだましたが)、宗吾にいらだつあたり、さらに苛立って宗吾を訴えてしまうあたり。
ちゃんと色悪として仕上がっている。
色悪なので、泥臭い百姓たちとは一線を画しているが、この人物の実態は、もし上記の首相や政治家に読み替える手法で行けば、「民衆」なのではあるまいか。「世論」とか、最近ではネットがこれに近い役割を果たすこともあるだろうし。
芝居の中では、百姓は善意の弱者だ。宗吾を誤解したり批判したり逆恨みしたりすることもない。そういう部分を背負って美しく練り上げられたのが、芸人駿河だろう。


なんか言葉で書いていると、理屈っぽくなっちゃうのだが、舞台はエンタテイメントだ。こんなに重苦しい話で?! と思うだろうが、重苦しかろうが残酷だろうが実のあるエンタテイメントにしてしまうのがコクーン歌舞伎というカタマリで、だから凄いのだ。


最後の宗吾の叫びも物凄かったね。
勘三郎は、人柄の愛嬌が出てしまって場面に最適でない場合もあるのだが、宗吾は合っていたと思う。本来愛嬌もあろう好人物が、最後の最後で本当に腹の底からキレてしまったときの「叫び」は、これは。


自分と妻は処刑されても、佐倉の未来を子供たちに託すと思っていた。
しかし子供も処刑されるとなったときの叫びだ。
「佐倉のためにと言っていたが、それは子供たちのためだったのだ」という。
また同時に、「子供が百年後の佐倉を作るのだ」とも。
親のエゴと社会へのまなざしの両方が、それでもまだ宗吾にはある。


そんな宗吾の子だからこそ、幼い長男は父を誇りに思いつつ、泰然と処刑される。静かに南無阿弥陀仏を唱えつつ。
すると、義の人である父が叫ぶ「念仏を唱えるな、成仏してはいけない、恨むのだ!!」
だが子供は静かに死ぬ。


惣五郎の物語は、江戸期に芝居になり、繰り返し演じられ、明治期には自由民権運動の人々にも評価されたという。
それを受けて、今回の脚本では、最後は明治と思しき時代にこの芝居を上演している場面だ。
「最後がこのままじゃひどすぎる」という客に、座長が、「立ち回りもない、しかけもない!」というあたり、これはわれわれコクーンの客へのメッセージだね。
でも、最後にちょっとした仕掛けはある。それでこそのコクーン歌舞伎
ちょっとした、でも本質的な、かもしれない。



もうコクーン歌舞伎を作り上げているすべての人が凄いと思った芝居だったが、細かいことをいうと、また七之助がよかった。年々成長しているという意味で。可憐で、無垢で、若いわがままを少しだけ見せ、殺される娘。彼は固い硬いと思っていたが、ずいぶん柔らかな感性を演じられるようになった。
ほかの役者? もちろん凄いですすでに。


そうそう。今回は2階席で見たのだが、声をかける大向こうさんが二人ほどいた。
一人は途中のいいところで、「中村屋」「成駒屋」と抑えた声で呟くように声をかけ、それが芝居にあっていた。
もう一人は、最後の「あの」場面で「中村屋」の絶叫。
これで芝居が仕上がった。


主演:   中村勘三郎
演出・美術:串田和美
脚本:   鈴木哲也
音楽:   伊藤ヨタロウ
作調:   田中傳左衛門
ラップ歌詞:いとうせいこう
ほか

☆演目の背景を知るには、たとえばこちら↓

●国立民俗歴史博物館・佐倉読書案内
http://www.rekihaku.ac.jp/about/books/index.html