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くだんのはは奇譚

小松左京に『くだんのはは』という短編がある。
最初に読んだのはいろいろな作家の入った日本幻想文学集的アンソロジーだった。
怖い、と思った。


数年後、『くだんのはは』というタイトルを目にした。
とても怖かった、という記憶だけがよみがえり、話の内容はまったく……微塵も思い出せなかった。タイトルの意味さえ思い出せなかった。
読み返した。ああ、やはり怖い、これだった、こういう怖さだったのだ、と思った。


また数年後、この印象的なタイトルを、目にしたか思い出したかした。
そしてまたしても、怖かったという記憶が在るだけで、話の内容も、タイトルとの関連性も、わずかなりとも思い出せなかった。
三度、読んだ。怖い、そうだ、これだった、と思った。


そして、三度、忘れた。怖いという記憶以外、何も思い出せなかった。
もはやそのこと自体が怖い。
なにしろ普通は、こと「日本語」「ストーリー」については比較的記憶力のいいほうで、ないよう全部を覚えていないまでも、印象的な場面とか、台詞とか、何かは覚えているものなのだ。
このことを、いろいろな人に話した。
本を読んでいない人は、「こわ〜い」と言った。読んでいた人たちは、黙っていた。


そして、また読み返した。
ああ、怖い、こういう怖さだったのだ、と、またしみじみ思った。
それからは忘れていない。人に話したからだろうか。ストーリーも、登場人物も、廊下の静けさ、松葉の香り、隅々までは知らない屋敷、洗面器の中、くだんのはは。
むしろスーパーリアリズムの絵画のように克明に、音がないという聴覚や、嗅覚まで伴って。


それから読み返すことなく、今これを書いている。
なんであれを忘れられたのかわからない。


私が、「怖かったという記憶以外覚えていない」とだけ話した人の一人が、読んで、「全然怖くなかった」と言った。
それは人それぞれだからね、とそのときは思った。
だが、今逆に克明な記憶を反芻して「読」み続けていると、それは「読めていない」のだと、断言しよう。
たぶん私の半端な話し方が悪かったのだ。そこらのホラーや都市伝説を知りたがるノリで読みこなせる話ではなく、感じ取れる怖さではない。


暑い八月に読みたい作品である。






この話が入っている小松左京の短編集がある。
最初に収録されている『すぐそこ』も好きだ。また、おそらく作家にとっては『くだんのはは』と通底する恐れなのではないかと思われるものをもっとわかりやすく……具体的に書いている作品もある。



霧が晴れた時 自選恐怖小説集 (角川ホラー文庫)

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