観た!

観客。

人間椅子『憧れのアリラン』

1993年発売の『羅生門』というアルバムがある。
komugiko00のテーマソングである『なまけものの人生』などが収められている素敵な一枚である。
その中に、『憧れのアリラン』という曲がある。


この曲、komugiko00の内的衝動基準では、とりあげるのはかなり後になったものだと思う。
しかし、当ブログにときどきコメントを下さる涅槃桜さんのブログを拝見していて、このタイミングで書こうかなと思った。涅槃桜さんご自身のアルバムレビューと、それとセットで、発表当時のメンバーのインタビュー(「プレイヤー」誌からの転載許可済)で構成されている。
なにしろ「情報」というものを見ようとしないkomubiko00なので、13年後にインタビューを見てたいへん新鮮だったりした(涅槃桜さん、感謝!)。


羅生門スペシャル版
http://blog.goo.ne.jp/nehanzakura/e/a9c996fcc92a9743d480988c54898004


羅生門
http://blog.goo.ne.jp/nehanzakura/e/fd8e1c0cf2ed756b26d8550db9ee47ea


では、やってみよう。


* * *


『憧れのアリラン』は、鈴木研一作詞作曲である。
人間椅子では、和嶋と鈴木それぞれが作曲し、それぞれのテイストが絡みあって一枚のアルバムの魅力となるわけだ。
komugiko00は、楽曲的には鈴木作曲に好きなものが多い。「鈴木のほうがサバス好きだからだろ」とshinbashiはあっさり片付けるが、ま、根幹はそれだろう。その他もろもろのファクターがありつつ、まあ、和嶋の歌詞がしっくりくるように、鈴木の曲がしっくりくるのである。
しかしだね、鈴木作詞は、基本的に遠慮する(^^; 例の「聞かないようにするモード」設定。いやあ、ときどき好きなフレーズとか、聞いてもいいかな的なのもあったりはするのだが。内容がよくても、言葉の選び方や並べ方が、感覚的にしっくりこないことがほとんど。和嶋作詞の逆である(^^; 鈴木の言語は、シンプルで肌理が粗い。その同じ資質がベースプレイや作曲では魅力になっているのではないかと思うが、歌詞ではダメである。あ、MCは好きなんだ、彼の。でも、あれは何よりあの「間」がいいのである。文字にしたらたいしたこと言っているわけではない(^^; あの「場」あの「間」。そう思うと、やっぱり音と舞台の人なんではあるまいか。
だからこう、鈴木の歌詞はちょっと気持ち悪いのだ。こう、核心の”周り”にざっざっとだいたいの線(太いヤツ)を引いて、「ここ」って言われているみたいで。和嶋の言葉は、飛び石を渡るように核心を選んで跳んでいくんだけどなあ。そういうわけで、鈴木歌詞はだめである。


つまり、『憧れのアリラン』もそれなのだ。
曲は好き。鈴木作曲の中で最も好きなランクには入らないが、好き。
歌詞は、単純で粗い。そういう理由で、却下。


発表当時、たまに椅子話をする知り合いがいたのだが、その人はこの歌詞についてこんなことを言っていた。
「こういうことをとりあげるなんて、社会的意識もあるんだね。すごい」
komugiko00はそれにはちょっと首をかしげた。そりゃ、社会的意識だってあるだろうさ、一市民なんだから。普段はふつうにモノ考えたり関心持ったりするだろう。だから、それをいちいちすごいとか言うのもナチュラルじゃないよね。
それにああいうテーマをとりあげること、ああいう歌い方にすることそのものが、私にとっては少々すわりが悪かった。
だって、そもそも歌詞は言語として半端だって思ってるんだよ。それが社会的論理的課題を語れるとは期待していないし、まして鈴木の神経が細やかに行き届かない(^^;言語である。ムリ。ふつーにムリ。そういうのは散文に任せておけばいいんだと思ってる、原則的には。
んで、ほら案の定半端な歌詞じゃないか、である。


ま、それはそれとして。
上記プレイヤー誌のインタビューで、これは「従軍慰安婦」を歌った歌だと言っている。「そういうテーマは前々から決めていた」と言っているが、だれの発案かは明確でない。どちらからともなく言い出したのか、当初作詞を担当するはずだった和嶋なのか、結局作った鈴木なのか。
ただそこでは、鈴木が大学で韓国語を習っていたときのことも語られているので、少なくとも鈴木に何らかの意識があったのは確かと思われるし、二人のどちらもが歌詞の意味について語っているので、共通認識があってのものだとも思われる。「よくないことをしたんだよ」ということは伝えたいと鈴木談。「向こう側に立って歌っている」と和嶋は言っているが、んー、その設定そのものがkomugiko00的には発表当時ちょっとひっかかったのだが。
この素朴で実直な善意の不器用さ、それゆえのある種の「不正確さ」(ほんとうに「向こう側に立」ててんのか? 設定だけなんじゃない? それをどこまで自分に問うているのか?)が、私には居心地悪かったのだが。


90年代初めは、この問題が大きく取り上げられた。今日それから10年以上を経過しての、komugiko00のこの問題についての認識はこうだ。


90年代初め当時に取りざたされたような形での「従軍慰安婦」という名称は当時は無く、「強制連行」の事実も、そのままの形ではなかった。
この二つの単語が大きく取りざたされたのは、政治的な理由からである。「戦争犯罪」として何かをとりあげるということ自体が、そもそも常に政治的理由によるものであるので、そのうちの一つであったのだと言えるだろう。

ただし「事実無根」というか、ゼロから発想されたものではものでもないだろう。その元ネタになる種々のこと――戦争に古今東西付き物である、つまり現在も行われている――略奪・暴行・強姦・敵兵相手の売春などはあったと考えるほうが自然である。
それが「日本だけがやった」わけでもなく、日本だけが問われなければならないものではないとだろうが、事実はおそらく存在したのであり、そこに生まれた種々の「感情」もあったはず。それが上記のシステムに吸収利用拡大されたものであろう。


だからまあ、「あった」「なかった」、白か黒か、という二項対立でやりあうのは、「政治」を行う人々の、利を取ろうとする駆け引きの方法である。それはきわめて意図的に行われるもので、客観的・科学的方法ではない。したがって、komugiko00的価値観からすれば、一般市民の方法ではない。
従軍慰安婦」「強制連行」はなかったとして、では何がそのときあったのか、どんな状況だったのか、日韓の現在の政治的関係性による解釈もいれず、ふつーに科学的にデータの収集をする段階なんじゃないの? 歴史学的には。と思うのだ。
当然のことながら、「強制連行」の事実があったなら、そのデータはある程度大きい、まとまったものであろう。一方、上に上げたような個々の事実については、データ収拾が非常に困難である。しかし、「いまこれだけの数の事実しか確認されていない」「立証できるものは無いが、これこれの発言がなされている」などの、少数の、微妙なデータを、それはそれとして収拾・提示するのも、科学的な方法である。噂や流言でさえ、噂や流言として認識し扱えば、科学的データの一部なのだ。
結論を急ぐと、また政治に吸い込まれるだけだ。


歴史学は、科学(社会科学)の一つでありながら、科学的であることが困難に宿命付けられたものかもしれない。
ただ私は、確認された事実、ある程度言われてれている事実、わからない事実、それらの波の上に漂っているのが快適だ。島影を確認しても、上陸は保留。


  • この歌をどう聴くか


というわけで。
まあね、そもそも「歌詞はなるべく聴かない」komugiko00からすればどうでもいいことではあるのだが、『憧れのアリラン』は、彼らがこの歌を創った当時と現在とでは、伝えられる事実が異なる。
彼らがそのことをどう思っているのかは知らない。
ただ、彼らの「客」の一人として、どう聴くか、っていうのをね、いちおう。


べつにいいんじゃない? いい曲なんだし。以上終わり。
……なんだけど説明しよう(^^;


問題はここだろう。これは、「従軍慰安婦」「強制連行」の歌として聴かなくてはならないのか? ということだ。
もう少し言えば、ここに歌われているのは、それに特化した事実だけなのか? ということ。


ここで歌われているのは「感情」である。


作者は、「従軍慰安婦」があったといわれれば、「それはたいへんだ、大衆を啓蒙しよう!」と思い、「なかった」と言われれば、「なんだウソだったのか、ダメな歌詞かいちゃったよ」と思うだろうか?


「感情」を歌ったのに?


彼らがこの歌詞を作るきっかけとなったのは、強制連行された従軍慰安婦が実在したと思ったからであろう。しかし結果的にこの歌詞に歌われたのは、そのことだけだったろうか? そして、当時言われたような「従軍慰安婦」が事実でなかったとして、ここで歌われたような感情そのものも、同時に否定されるものなのか?


上に記したとおり、戦争があれば略奪・強姦・敵兵相手の売春はふつーにある。今この瞬間にも起こっている。


歌いだしの「異国の地で操を捧げ」というのも古今東西いくらでもある。日本からも「からゆきさん」として外国に渡った人々もいるし、戦争花嫁も、結婚してはいるが実質似た部分もあったりする。今この日本で、「異国の地で操を捧げ」ている人々もいるでしょう?


んでだ。政治史的には、「強制」であったかなかったかが問題になるのは当然かと思うのだが、『憧れのアリラン』でも、果たしてそうなのだろうか。


なんだ、「強制」じゃなかったんだ、「経済的格差」とか「国力の差」とか言っても強制じゃないじゃん、自分でやってるんじゃないか、愚痴言う筋合いじゃないだろ、バコバコ……(^^; ってセンスじゃないだろうよ、あの歌詞は。


もし、そういうセンスだとしたら、「相手の立場に立ってる」とぬかす和嶋、そもそもそういう視点で感情的な歌詞を作った鈴木が、人間としていい気なもんでありすぎるだろう。


あ、それが実態だったとしてもべつにいいんだけどね。komugko00、「鈴木くんはそんな人じゃないワ!」とかいう根拠の無い決め付けをするタイプじゃないんで。もし彼らがそういうふうに考えていたとしても、彼らの楽曲や演奏についての評価には一切影響しないけどね。


そう。あれは、きっかけはなんにしても、「感情」に照準を合わせたことによって、より普遍的なものとして歌える歌詞として書かれたと解釈する。またその感情の描き方が、つっこみが浅くて物足りない感じがするのでさえ、逆に言えば状況を特化しない方便であるかもしれない。
唯一地域を限定するワード、「アリラン」を使っているのは、鈴木の朝鮮半島への思いいれの故かもしれない。あの時代にわざわざ韓国語を習うというのは、すでにかなり意識的である(彼の専攻は確かロシア語だったと思うのだが、それと考え合わせると、ましてや)。
そういう意味では、普遍化するには難しい単語を入れちゃったね。でも、「アリラン」をただコーリャンな雰囲気で使ったのではなく、それの持つ意味を踏まえて、有功に織り込んでいるわけだ。だからこそ、とりまく事実が変わっても、そこにこめられた思いの本質は変わらないと思うのだ。あの歌詞の持っている素朴で実直な不器用さ。作詞者の内部にあった、そして資質として持ち続けているであろうそれは、外的状況に関わらず有りつづけるのではないか。


この先も、いつでも歌われていい歌だと思う。
政治的なりゆきで、歌われたココロへの評価が左右されたくないしね。





komugiko00「きみはこの歌詞どう思う?」
shinbashi「べつにいいんじゃん? だって歌詞だろう? 小説でも詩でもそうだけど、フィクションだよ。ルポルタージュじゃないんだ。たとえ従軍慰安婦という言葉が当時無かったとしても、強姦や売春の事実さえなかったと仮定しても、それが『あった』という設定で描いていいものなんだよ。事実からある程度普遍化して書いたつもりのものが、結果的にフィクションになったという経路だとしても、テーマは変わんないし。ぜんぜんかまわない――ま、スバラシイ歌詞ってわけじゃないけどな(^^;、その部分はぜーんぜん?」



* * *



komugiko00「でも、鈴木の歌詞、だめだめって言ってきたけど、そう思って見直すと、しっかり構成されてるんだよね」
shinbashi「だからぁ、彼はアタマいいんだよ。だからイマイチおもしろくないんだ」


ああ、そう、言語は整然と線が引かれている感じがする。あいまいさやゆらぎが見えない。作者自身がゆらいでいるときも、「ゆらいでいます」と直接的に言ってしまうというか(^^; それがkomugiko00には「神経が行き届かない」感じがするのだ。和嶋言語はあいまいさや揺らぎだらけだからね。



komugiko00「しかし、80年代=ロシア語人気どん底&ハングル人気未到来の時期にロシア語と韓国語やるって、どこまでマイナーなんだよ。人間椅子になっちゃうはずだよな」
shinbashi「すごいじゃないか。それでもしも役人やビジネスマンになって、今40歳でいてみろ……」
komugiko00「それはもう……」



羅生門

羅生門