観た!

観客。

人間椅子『相剋の家』


人間椅子が好きなことに、そこはかとないうしろめたさ(?)があったりする。もともとブリティッシュロックが好きなのに、そのフォロワー、shinbashiに言わせれば「パロディだ」とまで言われてそれなりに当たってるじゃん(^^;と思ってしまうバンドの方が、本家よりも大事になってしまったことだったりする。
いや、何の問題もありませんが、そこはかとないうしろめたさはまた椅子らしいと勝手に思って楽しんでいたりするのだけれど。


往年の英国ロックより人間椅子のほうが好きになってしまった、それには、もちろん和嶋慎治の言語の役割も大きい。
彼の言語には「同じ土壌」を感じる。


komugiko00は、もともと「歌詞」というものはあまり信用しない。
それはあくまで音楽の付属物であって、言語表現としては詰めが甘く、妥協もいとわないものだと思うから。
だいたい、「いい」と思う文学には出会っても、いいと思う歌詞にはほとんど出会ったことがない。だから、なるべく歌詞は「聴かないように」してきたぐらいだ。
ところが、だ。
和嶋の歌詞については違った。

まずもう、感覚的に同調するのだ。
音に乗せるための妥協や甘さも当然あるけれど、ぜーんぜん気になりません。そんなの問題じゃありません。
故郷に帰ったような……というか、「これが本当の故郷だ」的な? 前世は絶対同じムラに住んでいたさ。

感覚だけでなく積極的に「好き」な歌詞も数多。
いちいち上げないけど。
べつにどっちでもないものや、評価低めのものもまじっているが、それはもう「当然」の%でしょう。だし、すでにテイストそのものが「他」とは違うので。


ただ、もう、ある意味うしろめたいというか、自分で驚いたのは……。
「落ち込んだときに聴く歌」の座がついに取って代わられたことである。
わりと最近。


komugiko00のそれは、長年KING CRIMSONの"Epitaph"であった。
あの、大言壮語的甘ったるさの、土砂降りのセンチメンタルなサウンド、絶望的な歌詞。落ち込んでいるときにこれでもかと圧し掛かってくる重さが、漬物石のように作用して、創(きず)を甘美な大凶状態にしてしまう。うっとりとどん底
これ以上は下に行かない。人間どーせいつか死ぬんだから、それまでの時間なんて宇宙的規模で見たら大したこと無いんだから……しょうがねえな、起き上がるか。
そういう作用。


希望を持ってがんばろう的なこと言われたら、ちゃぶ台ひっくり返すタイプなんである。
それで、この"Epitaph"の持っている作用を、もっとダイレクトな言語でもたらす曲に出会ってしまった。日本語という点ですでにダイレクトさで有利だが、逆に、日本語だからこそこちらのハードルも高くなるのだが。

『相剋の家』

第一行がすでに「日本刀の一突き」である。
  慙愧の数だけ涙を零せば呵責の鎖が切れるというのか
そうです。そうなんです。内容が的確なうえに、選んでいる単語が、私にとって親密な心地よさを持つもの。「慙愧」「呵責」などね。
もうこれで討ち死に。そうなんです、そのとおりです。ばったり。

第一行と最終行である意味語りつくされているのだが、中間部では、
  情熱とはチンドン屋の悟り
これはもはや日々の生活のテーマソング。はいはい、チンドン屋でござ〜い。利口に生きてない人間(みんなか?)にとってはわかりやすすぎる、ああ、でもここは応援歌。

極め付けが最後の一行。
  他人を羨み自分を蔑み未来を諦め何処へ行こうか

どん底と言ったら、これ以上のどん底は無い。Epitaphなんかまだまだ「きれい」だ。これ、ミもフタもない。
こんなことをこんなに端的に言えるやつはスゴイ。
最低でしょ、こんな人間。
でも、こうだよね。だめだ、と思うときはこうだよね。他人を羨んでるだろ、はい。自分を蔑んじゃってるだろ、はい。未来を諦めたらもう終わりなのに、でもまだイノチ続いてるんですけど……どこへ……。
行き場が無い。行き場が無いが、「どこへ行こうか」と、ふらふらと歩みだしてしまっている、それが、まだ続いてしまっている、死に絶えない感じなのだ。
その前に言っている「生きよかな 生きるのよそうかな」の、語調の軽さや幼さも絶妙。ん、そんなもんだ。そんなもんで考えて、でもまだよしてないんだよね。よしてないから「どこへ行こうか」になる。
もうぜんぜん、よくなるなんて思わないさ、でも、ふらふらっと、ああ、二歩歩いちゃってる、いつのまにか。的な、生。あるいは、茫然と膝をついているのかもしれないが、それでも生の時間は進んじゃっているのである。

逆に言えば、こんな最低で、「どこへ行こうか」とか言っちゃって、それで生きてていいんだ……という感覚。未来を信じ、きっとよくなると信じ、「よく」なるために諦めず……というプレッシャーがない。そもそも「よく」なるってなんなのさ、何を以って「よい」というのさ、というレベルの疑問もわかない。
今の最低な自分のままで……だってそれしかないんだもの、死ぬまでは。


そしてサウンド
あのドラムとベースは、脅かすようでいながら、まるで心臓マッサージだ。止まろうとする精神、後ろを向いて見ないようにしようとする心にぐいぐい鼓動を叩き込んでくる。そして、世界を拒否しようとするのに開かせて、挙句聞かせる言葉が「他人を羨み……」だ(^^;
逃げさせてくれない。


この、サウンドの重さ、曲調の大仰さということは、"Epitaph"にも通じる。どうも私にはコレが必要なようだ。普段も好きだが、落ち込んだときは、特に。「心が重い」という慣用句があるが、それに見合った、場合によってはそれ以上の重さが必要。
それによって、「均される」のかもしれない。
あるいは、天が落ちてきたような重みで、ぐぶぢゅっと潰れ、何かがでろろ〜っと瓦礫の隙間から流れ出し……そいつがよろよろと再生する……のかもしれない。


……というわけで、「落ち込んだときに聴く曲」の座を獲得(?)した『相剋の家』であるが、落ち込んでいなくてももちろん好き。落ち込んでいないときは「ぐぶぢゅっ、でろろ〜っ」が起きない。自分の中に「ぐぶぢゅっ」するものがないんだろうな。


あ、歌詞のところで、この曲の「テーマ」であるところの「家」に触れなかったね。
そこはkomugiko00の現在にとって重要でないのでありまた同時に、触れないからこそ『相剋の家』だったりもする……。




↓相剋の家』は、アルバム『修羅囃子』の最終曲。ジャケットの「髭で眼鏡の町娘(自称は花魁)」は秀逸。shinbashi曰く、「ふつーに似合う」。


修羅囃子

修羅囃子