観た!

観客。

三人吉三〜コクーン歌舞伎

今年はインプットを抑えてアウトプットに集中……とか年頭に言っていたくせに、展覧会過ぎたらいきなりインプット体制になってしまったが(^^; 年頭から万難を排して「インプットする」と決めていたラインナップがある。全部生のステージで、人間椅子単独・ラーメンズバナナマン・そしてこれ、コクーン歌舞伎

今年の演目は『三人吉三』おなじキチザの名を持つアウトローなどろぼーさんたちの物語である。河竹黙阿弥の本で、緻密な不合理(?)なストーリーの網、登場人物のそれぞれのどうしようもない閉塞感の美しさが魅力の、歌舞伎の中でも「おもしろい」ものと言っていいんじゃないかなあ。

和尚吉三 : 中村勘三郎
お嬢吉三 : 中村福助
お坊吉三 : 中村橋之助
十三郎 : 中村勘太郎
おとせ : 中村七之助
研師与九郎兵衛 : 片岡亀蔵
土左衛門伝吉 : 笹野高史


まず今回、中村勘太郎七之助に目が行った。二人とも19歳の役を演じているのだが、可憐な色気が出ていた……と思ったら、25歳と24歳になったのね。そう、歌舞伎役者が役者としての色気が出てくる年齢である。そう、「青臭さが抜け」たんだね。
特にあれ? と思ったのは七之助である。女形が、きれいだが硬すぎる、というのが定評だったしkomugiko00もそう思っていたが、今回はそう感じなかった。白塗りするには細すぎるあごも、ふっくらしたようにさえ見えた。大人の役者になってきたということか。
これくらいになってくれば、お父さんの舞台に出してもらっている、という感じではなくて、ちゃんと一人前の若手、という感じがする。うれしいなあ(^^

これ、出会ってすぐに恋に落ちてしまうピュアな恋人同士、ところがじつは双子のきょうだいで、最後はそれも知らずに殺されてしまうという役どころなわけで……勘太郎が、「ぼくたちにしか演じられないものを」と言っていたが、その感じ、出ていたんじゃないだろうか。


橋之助のお坊吉三は、まあ当然のはまり役で、よろしかった。
んで、福助である。もう、わかっているのに毎回思っちゃうが、声悪りぃなあ(^^; でも、そこを抜かすと、立ち姿、振る舞い、娘と見えて実は男である、しかもどろぼうであるお嬢吉三にはぴったり。ふつーにらんぼーな感じが。特に、最後の見せ場はよかった。悪声も、がんばって「すれた感じ」として聞くようにしたよ(^^;
やぐらに登って太鼓を鳴らす「お七」になぞらえたところは長身が生きていたし、その後、娘姿で男の立ち回りを見せるところは、もう、(作者の意図どおりの)かっこよさであった(ここ、しゃべらないしね!)。今回、ここでちょっと感じ入ってしまった。
この成駒屋の二人のセットは見た目にきれいでよかった。


しかし今回、をを、と思ったのは笹野高史である。
いや、コクーン歌舞伎で笹野がいいのは毎回のことなので、いまさらでもあるのだが、今回特に。
この演目は、七五調の長台詞が多い。そして笹野にもそれがあるのである。これはある意味たいへんなことだ。笹野は、あくまで新劇の演技で歌舞伎の舞台にいて存在感を放ってきたのだが、これはどう逆立ちしても歌舞伎の口調なのである。
その、七五調の長い台詞を、彼は歌舞伎風でもなく、かといって普通に読んですべってしまうのではなく、自然に新劇の台詞のように語りこなした。
かっこいいっ。


んで、ご本尊勘三郎であるが。
和尚吉三も彼にはとてもいいね。他の二人の吉三をおさえる、ワルとしてちょっと格上のところも、親父のところにたまに戻ってくる世話物らしいドラ息子ぶりも、そして最後、双子の弟・妹を手にかけるあたりの屈折・凄みも。
勘三郎ならできて当然なのであるけれども、二つの首を抱いてくるあたりは、息を呑んでしまったよ。
わかりきっている筋書き、しかも「畜生道に落ちたから殺してやった方が幸せ」しかもそれが「親が犬を殺した因果」という現代では共感しようがない(^^;理由によるものなのだが、だって彼らには重要なことだったのだもの。彼はそう感じ、そう追い詰められたのだもの、と思う。


しかし、黙阿弥の描く因縁のありえない緻密さはさすがだな。これもわかっちゃいるけどおもしろかった。


んで、音楽。
今回椎名林檎が曲を書いているというので、期待半分心配半分だった。
もともとコクーンでは、勘三郎が最近の音楽を使いたがるのを、演出の串田和美が抑えていた、と記憶している。演出を新しくするからこそ、音だけは伝統の音にした方が、引き立てあうのだ、というような理由だったと思う。『夏祭浪花鑑』では確かにそうで、ほんものの祗園太鼓を呼んできて、それが空間につくりあげる緊張感が素晴らしかった。
だからね、心配半分があったわけ。
で、実際聞いてみると、満足半分未消化半分だな。
椎名は、与えられた困難な使命を、よい形で達成したと思う。
全編椎名音楽なのではなく、ふつうの歌舞伎の音に、椎名の音が入ってくるわけだ。最初は、確か夜道の少し不安な風景のところで、かすれたエレキギターが「ブーーーン」と鳴る。ああ、これはいいな、と思った。そして、基本的に入ってくるのはこういう音である。(ただまあ、これ系だと、映画『デッドマン』のニール・ヤングの即興演奏があり、ちょっとあれと比べちゃうと……)
椎名が歌うのは最後、三人吉三が折り重なって死ぬところで、眠れよい子よ的な歌詞を、1フレーズだけ。
↑いい判断かと。
未消化だったのは、最後の立ち回りのところで、電気楽器の音が大きくかぶって来るところだ。通常のツケと太鼓が鳴っている上に、それらのリズムと関係なく電気音が「覆いかぶさって」くる。ああ、ツケが、ツケが構築する空間が好きなのに、ツケのストイックな音が舞台から柱のようにまっすぐに登って空間を作るのに、エレキの音がそれを上からつぶしてしまって、ツケの柱が立たないじゃないか。うるさい、いらない……と思った。
そのうち、ツケと太鼓の音は消えて、エレキのノイジーなうなりの中で、大量の「雪」がまきちらされ、立ち回りが続くのだが……。
komugiko00の、ラストに向かっていく高揚が、あの電気音につぶされて、なんだか感動しそこなってしまったのだ。

深読みすれば、あの唸りそのものが、三人の生き方の不安であり、所詮そんな生き方しかできなかった連中が社会から与えれられまた自分の内面に持っている抑圧であり……っていうことなのかもしれない。そう意図したものなのかもしれない。
まあ、そういう意図だったとすれば、それは理解できる。
でも(^^; komugiko00はツケ・フェチなので、ツケが作る緊張感以上の音はいらないのだよ。ときどきこういう場面で役者ではなくツケを打つ人を見ているぐらいだ。それではツケ打ちの本意ではあるまいが、見せるための動きをしている役者よりも、ただ音を出すためだけのストイックな動きに魅了されるのだ。
ツケは空間を作ることができる。そしてそのツケの音が作った結界の中で、勘三郎のような空間をつかんで動かすことのできる役者を観ることが……何よりのエンタテイメントなのだ。

音をどのタイミングで入れるかは串田の判断だと思うのだが、今回はシュミ合わなかったね……。


komugko00は、そもそももちろん電気の通った弦楽器の音は好きである。でも……。
ああ、そうか、歌舞伎には、何もない「空間」というカタマリがあってほしいのだ、役者がそれを動かすのを見るために。
ロックのライブでは、音が空間を満たす、音が空間を構成する。それが好き。
まあ、komugiko00の感覚器官が、それらをべつべつに受容するように作られてきてしまっただけなのかもしれないけど。
そうだなあ、歌舞伎の舞台の上に、義太夫のようにギタリスト一人あげて、芝居に連れて生で演奏がされたら……そう想像すると、ちょっとうっとりするけれども。