観た!

観客。

中村勘三郎特別公演

まつもと市民劇場 2011年7月24日

今頃書くけど、7月24日に松本に行ってきた。
23日も行けたけど、あえて24に。


病気から復帰する、でも通常の歌舞伎用の舞台ではなく、縁が深いとはいえ本拠地東京でもなく、2日だけという、まあ復帰に向けたお試し公演だったわけで。
komugiko00のようなタイプの観客からすると、行くかどうか迷うところでもあるのだが、一つは、「まつもと市民劇場」という劇場そのものが好きなので、というのがあった。


最初に勘太郎の『浦島』と七之助の『藤娘』。
どちらも成長したなあという見方をしてしまうのが相変わらずなのだが(^^; 
それぞれ演目が合っていたと思う。今回はパパの前座だが、パパが大きすぎるが、もう一人前の歌舞伎役者だね。



そして勘三郎の『身替座禅』。
多少はらはらしながら待っていたが、出てきたのは、愛嬌たっぷりの右京だった。
たぶん本人は、もっとできたのに、ともどかしい部分もあったと思う。
しかし、あの「愛嬌」と「花」は、誰にでも出せるというものではない。


こういう引き合いに出しては申し訳ないのだが、浦島でなかなかよかった勘太郎が太郎冠者をやっていたのだが、これはいまいち。これを勘三郎がやったら、もっと「かわいい」感じが出るのだが。勘太郎は真面目な人が明るくやってる、に見えてしまう。
下手なんじゃなくて資質だろう。
勘三郎は、ときにシリアスでなければならないところまで愛嬌が出てしまう資質だからね。


勘三郎は、そもそも技術的に非常に優れた俳優だった。
串田や野田と組んで「新しい」演出や解釈もとりいれた。
それら外的条件が、内的なものと無縁に出てくるわけではないのは当然だが、いちおう別物。その別物の外的条件が十分だからこそ内的なものが十二分に引き出される、ということはある。
勘三郎の魅力の一つはそこにあったと思う。


『身代わり座禅』の勘三郎の外的条件は、十分だったと思う。
ただ、本人は、「当社比」として、十分と感じていないだろう。
しなしながら、だ、役者として一番失ってはならなかった「花」が彼には存在していた。


満場のスタンディングオベーションに、ちょっと感動しながら勘三郎は挨拶をしていた。
うん、こういうときに、観客の熱い気持ちを伝えるにはスタンディングオベーションは悪くはないね。
ま、あたしゎ相変わらず立たなかったけどね。でも、望んでいた舞台は見せてもらったよ、勘三郎丈。


秋の公演はとれなかったけど、またいずれ見に行くし。





身替座禅 [VHS]

身替座禅 [VHS]