観た!

観客。

ナイロン100℃「ナイスエイジ」


初演から6年、太ったメンバーが多い(^^; 池谷のぶえは太ったほうが役柄がパワーアップした感じでよろしい。大倉孝二は今回のほうがパンツが細くてたわみ方が強調されてよろしい……って、とりあえずどうでもいいことから書いてみました。12月に見に行ったんだけど、今頃書くので(^^; ストレッチ代わりに。
舞台の使い方が初演に対して左右対称になっている部分が多い。回り舞台だけでなく上下の使い方がより自在になった。これは劇場の違いもあるのかな?


廻時雄役は今回は佐藤誓。komugiko00は近年の彼は好きだ。こう、「一癖ある」「影がある」それでいて頼りない……そういうテイストが非常によろしい。そういう意味で言うと、初演の小市漫太郎の方が、元お坊ちゃまな感じがして、役柄には合ってたような気がした。少年時代を演じるみのすけとちょっと顔も近いし。でもいいのか、お坊ちゃまがひねちゃったのが、「2000年の」時雄なのだから。


この芝居の設定を簡単に話したらshinbashiが「SFなのか」って言ってたけど、まあ考えてみればそうだ。SFというジャンルそのものが「衰退」しているわりには、あちこちに本来SFであったものがふつーに入っている今日この頃。まあ、W村上(←死語?)が境界文学(←死語)と呼ばれたころからそれは始まっていたわけで。
脚本・ケラリーノ・サンドロビッチは(例によって情報を知らないが)、もともとのSFも読んでいるかもしれないが、SF好きの少女漫画家(萩尾望都とか)の作品の匂いがすると、前もなにかのときに思ったが、今回もちょっと思った。


この芝居は、2000年を基準観測点(?)としているから、2000年に見たほうがより観客は容易く実感に入れたと思うが、6年後の観客はまあ全員2000年を間近に記憶しているから、そこの誤差は客の内部で修正可能だ。
これを20年後・30年後に見たときには、そのときの新しい観客はどう思うだろうか。「2000年」は一つの抽象として理解されるのだろうか。
村上龍の『愛と幻想のファシズム』という小説がある。1987年に発表された小説で、1990年を「近未来」として描いた。バブル全盛の時に描かれたその1990年は、実際の90年代とちがっている(日本にファシズムが台頭するとかそういうことはもちろんないが(^^;、ニホンジンの価値観その他がっていうことね)。
komugiko00は1987年も1990年も知っている。しかし先日、そのころ生まれた若人がこの本を面白いと言っていたので、「今となっては過去である90年が実際と違うことはどう思う?」ときいたら、「フィクションとして読んでいたから、現実との関係性は考えなかった」と答えた。
なるほど。作者はシャカイを勉強して、現実との関連性でくみ上げた作品だったけどな。考えてみればその若人は1990年には幼児だったから、その時代も「知って」いるわけではないし。架空世界だな。作者が意図したものを理解するには現代史を「学ぶ」必要があるわけだ。
話がそれたかな。『ナイスエイジ』はそこまで時代との関連性で組まれているわけではない。家族関係その他明らかに時代のものであるけれども。だから、「2000年」を過ぎても、即通じないのは2000円札のギャグぐらいで(^^;、あとはフィクションとして難なく受け入れられるのかもしれない。。ま、そういうこと考えずに2000年の「今」で作られた芝居だろうけれども、6年後でも微妙にクッションがある部分もあったので、ちょっとさらに再々演を考えました。
逸れたついでに一つ書いておくと、komugiko00は、「『愛と幻想のファシズム』は『ジャパッシュ』(望月三起也)のパクリだ」という人々と同意見である(そういう意味では「90年」でなくてもいいわけか)。


よかったな。←話を芝居に戻して。
ものすごく意外だとかものすごく深いとかものすごくおもしろいとか、そういうのではない。でも、確実な充実感のある芝居だった。
脚本と演出がよく組まれ、よくこなれているのだ。
ちゃんとおなかに溜まるものを食べた後の満足感。


2000年、一軒の貸家に越してきた4人家族。両親と娘と息子。仲が悪い。亡くなった長女がいる。
大家の夫婦が、今日越してきたばかりというのに、とりこわすから引っ越してほしいといいに来る。
幽霊が出るとか言うが、実際は時間異動装置がある家だから……というところから始まる。
それで何も知らない家族が次々に時間移動してしまい、それを大家夫婦(実は時間パトロール)が追っていくが、4人が4人とも移動し、時雄はさらにまた移動し……という構造。


亡くなった長女は、1985年のあの飛行機事故で、だ。次女はなんとか姉を飛行機に乗せまいとあがく。
次女は長女に嘘をついたまま死なれてしまった。その傷があるから必死だ。
時雄は、1965年の中学時代の自分に出会い、さらに1945年の、終戦の数日前の母や叔父に会う。


時間移動をして、ふりかえりをし、贖罪をしたがったり、自分をそとから眺めたり、現在を知った視点で口を出したりする。
息子は1965年に現れるのだが、後に両親になる若い二人がうまく行くように心を砕き、画策する。うまくいってくれないと、「おれがこまる」。
……と、いうようないろいろ、いろいろ、が起きる。時雄が中学生のときから入れ込んで、ついに破産の元になった芸人も出てくる。
未来にもつながる。


時間移動、という姿をとったカウンセリングだな。あ、だから少女漫画みたいなのか。
登場人物の立体カウンセリングによって、観客が擬似カウンセリング的追体験ができる。時間をさかのぼるのは催眠療法を連想させ、その時代のドラマの中に第三者として入って、かつての家族や、場合によっては自分を見ているのは、サイコドラマ(ドラマ形式を用いた集団療法)の一手法をにも似た感覚だと思った。
まあ、そういう感覚をもったけれども、作者がそれを意図したかどうかは別の話。ドラマのつくりが大きいし、それが鼻につくわけでもない。


最後に、家族全員が2000年に戻り、元の鞘に納まり、また元通り喧嘩をする。
「仲悪っ」
息子が言う。
「ふつうなんか、ああいうのがあったら、なんかこう、もっと変わるんじゃねえの?」
しかし変わらない。
サイコドラマ的に言うならば、他の時間で、「ああそうだったのか」と理解し、ときによっては……たとえば、「お姉ちゃん、飛行機に乗っちゃダメ!!」と絶叫することでカタルシス的事故治癒を行い、という体験をした。
これで「理解」したはずだが、しかしかわらない。


もちろん、その方が現実である。理解したからといって、理解し合う関係性が作れるわけではない。行き違いと齟齬によって編み上げられてきた関係と「今」は、そうたやすくは解(ほど)けない。


だから、なのかどうか。


タイムパトロールの二人が、廻家の人々が時間移動し過去に介入していくのを止められず、そのために干渉を受けた過去が変わり、「24時間営業のジーパン屋」ができたり、「アメリカ大陸」を発見した人が日本人だったり、もう収拾がつかなくなっていく。
そこで時間管理局は、すべてをリセットする手段をとる。
全ての人が、全ての記憶をなくす。
これが徹底している。時間移動に関わることを忘れるとかいう姑息なことではない。記憶がなくなる。
さっき水をこぼしたことも忘れ、同じ家の中にいる相手の顔も忘れる。相手が誰だかも忘れる。




解くには、これしかない。










http://www.setagaya-ac.or.jp/sept/jouhou/06-2-4-45.html