観た!

観客。

阿佐ヶ谷スパイダースPRESENTS 『イヌの日』


再演である。初演は見ていないので、パンフレットの記述から推察するしかないが。

阿佐ヶ谷スパイダースらしく、楽しませながらえぐり、えぐりながら甘美な(?)作品である。
役者は全員名演。もともと巧い人を集めて、個性の顕った脚本・演出で、それぞれが自分の役を愛している感じのするこなれ方。そういう意味で気持ちのいい作品だった。
見終わった後の満足感はそういうことだったと思う。
スパイダースの三人はもちろんのこと、八嶋智人はあてがきじゃないかと思うほど似合っていて(もちろんあてがきじゃない。初演は小林題作)、美保純もいい(これは再演で作った役だそうだからもしかしたらあてがきの部分もあるかも)。
芝居が終わって客席のライトがついてすぐに、近くの席の人が立ち上がって関係ないことを大声でしゃべり始めたのが信じられない(^^;;余韻あったでしょ、余韻、と思った。
ま、komugiko00の芝居の楽しみ方の半分は「反芻」だから、タイプの違いなんでしょう。


ただ、その楽しみな反芻をするほどに、見ながら感じていた釈然としない感じが気になってきた部分もある。
いや、あれはああいう芝居でいいんだけどさ……。
もしかしたら、初演の脚本の方が、komugiko00は納得が行ったかもしれない。


いい加減に乱暴に生きている男「なかやん」が、小学校の同級生を庭の防空壕に監禁しているとわかる。それが17年も前からだということがなんでもないように語られるあたりがいかにも長塚である。ここ好き。

そして、17年間、「地上は荒廃してたいへんなことになっている」と聴かされて、地下で生き続けた子供のままの4人がいる。
こいつらのむかつくハシャギ方(^^;、じつに「子供」である。それになんなく同化してしまう役回りの八嶋似合いすぎ。
なかやんは、その4人を監禁し、うそをつき、子供のまま「保存」し、しかし養おうとしつまりは守ろうとしている。
――これだけでよかったんだ、komugiko00は。


同行の友人が、終わった後に言った。
「こんな監禁事件、現実にいくらでもあるし、現実の方がすごかったりするよね」
彼女にとってはこれは大したこと無い芝居だったらしい。


ん。そうなってしまった原因は……ここだよ、なにしろ初演と比べてないから推察なんだけどね。
初演にいなかったなかやんの「母親」を出してきたこと。それによってある種のリアリティを出そうとしたことが、逆にリアリティを削いだ……んじゃないかなあ。


あの母親はよかった。演じたのが美保純だったから、というのもかなり大きなウエイトを占めているけれども。
よかったけど、「普通の現実」なの。
母親が出てきたことによって、それも子供への引け目と愛情をもち、子供がやりたいなら「悪いこと」かどうかもどうでもよく、子供を守ることしか考えない、そういう「普通の現実の」母親なの。
そういう人が出てきてしまったので、なかやんの行動は乱暴な夢の構築ではなくて、暴力になってしまった。
長塚は所詮「ムスコ」なのかなあと思った。


なかやんの家族関係を描いていくことによって、なかやんが「どうして友達を監禁したか」が見えてきてしまう。非常に巧みにではあるが、答えが出されてしまう。
そういう親子関係があったから、「しょうがない」とは言われていないが、すんなりと因果関係が導かれている。
あのさ、そういうハハコ関係だったら、他者を抑圧してもユルサレルわけ?
芝居はそうは言ってない。言ってないけど、そう思わせるスキをつくってしまったね。


母親が描かれていなかったら、ヨコの関係だけで成立していれば、komugiko00はそう考えなかったと思う。


この話はもっと、半ば抽象的な現実の領域の話なのではないのかな、本来。まあ、大筋それになっているんだけどね。本質は侵食されていないけどね。


また何年かあとに改稿再演するだろう。そのとき、母親はまた描かれるだろうか。今と同じだろうか、変わるのだろうか。


いずれにせよ、地下の4人だけは変わらない。
それが『イヌの日』だ。