観た!

観客。

「研ちゃんモエ〜」

 言ってみた(^^;



komugiko「ライブのブログ読んだ人に『冷静だ』って感想もらった」
shinbashi「ふうん」
komugiko「けっこう『研ちゃんモエ〜』だったんだけどな」
shinbashi「ふん」
komugiko「まあ感想には『鈴木のあの歌い方がイヤ』とかも書いたけど」
shinbashi「だめじゃん!」
komugiko「そう? だって『モエ〜』と『一部歌い方がイヤ』とは矛盾しないけど」
shinbashi「それはねえアンタが特殊体質だからだ」
komugiko「?」
shinbashi「モエ〜だったら全部よくなくちゃ」
komugiko「?」


 それが。あのあとまた往年の「椅子モード」、特に「鈴木モード」が戻ってきてしまい、なんか文句つけてた『芋虫』と『屋根裏のねぷた祭』が家ではCDで外では頭で回りっ放しで……ちゃんと社会生活できているか不安だ(^^; ヘンな一人言言ったりしてないだろな(^^;;

 んーーーー。
 不思議だ。
 一時期かなり「イヤだ」と思ったのに。

 私はもともと鈴木擁護派である。
 某所で椅子ファンが何人か集まったとき、みんな和嶋派……それもちょっと耳の肥えたハードロック野郎どもで、「もっとうまいベース&ボーカルに変えないと和嶋とバランスが取れない」というリクツが多数を占め……まあ(^^;;;それはある意味わかりつつ(^^;;; なぜか一人鈴木を背後に守ってタタカウkomugiko00であった。
 タタカイの論拠
 (1)あのベースの音を出すプレイヤーはなかなかいないぞ。
 (2)確かに声は悪いが、あの癖のある歌いまわしは類を見ない。

(1)に関しては、まあ、わりと容認された。もっと器用なベースがほしいという意見はありつつも。
(2)に関しては、だからその歌いまわしがイヤなんだったら(^^;という意見がそのとき多数であった。

 聴く耳のないやつらめ、とそのとき思った。
 まあ、声が「悪い」までは言わない。「決して声質・声量に恵まれてはいない」というところか。でもそれだったら和嶋だって似たりよったりじゃん。鈴木しかできない(鈴木しかやる気にならない?)あの歌い回しができる、もっと声のいいボーカルが存在するなら、そのときは考えようぜ、って思った。言った。

 しかしそのkomugiko00が、ある時期鈴木の声と歌いまわしのある部分がどうしてもだめになってしまったのだ。歌詞も、言葉の細部がガマンならなくなったし。
 そう、ガマンならない、イヤ、になったのだな。
 そのとき椅子全体をあまり聴かなかったので、「椅子モード」自体が薄れていたとはいえ、和嶋には拒否感は無かった。ひたすら鈴木のボーカルがダメだった。ある種の部分がイヤだったのが、もう全体的に評価が下がった。
 ベースと作曲はあまりさがらなかったので、「せっかくのサウンドを歌が邪魔している」と、どっかで聴いたようなことを思っていた。

 先日のライブの感想のときに「アルバムでの歌い方がイヤ」と書いたのは、その時期のキオクで、たしかにカナリ嫌だったのだ。
 しかし、ライブがあまりによかったので、数日後アルバムで久々に聴いてみたら(ライブの直後は録音者は聴く気になれない)……あれ? ボーカルもそんなひどくないじゃん? あれれ? これのどこがそれほどイヤだったの? と思った。
 まあ、『芋虫』は、なだらかな部分は「声のいい」ヴォーカルが歌ってくれたらなあとはっきり思うが、鈴木もかなりがんばっておるではないか。声潰すところはまさに鈴木ならではだし。『屋根裏のねぷた祭』も含めて、歌詞もべつにそれほど……和嶋みたいに「いい!」とは思わないけど、あの神経を逆撫でされるような感じはどこかに行ってしまった。

 同じ録音が違う色調で聞こえる。
 こ、これがもしやshinbashiの言う「モエ〜」の状態ですか?
 「モエ〜」であるときとそうでないときと音が違って聞こえ、モエ〜でないときに許せなかったものがモエ〜のときには許せるのですか。
 すごいな、人間の感覚って。ライブのときもベースに集中してたらギターソロに気付かなかったし(^^; ←単にkomugiko00が偏ってるだけか?

 
 つまりは、鈴木モードが戻ってきちゃったらしい。


 これは小林賢太郎のせいだな。←飛躍
 小林が「ラーメンズ」をやらないからだ。←暴論

 ラーメンズに一番激しくはまって、毎日DVDを見て、ファンサイトまで作っちゃった頃は、人間椅子はいっさい聴かなかった。プレイヤーにかけられることがほとんど皆無だったろう。まあ(^^;;その時期でも新譜が出れば即座に買ってたんだけど。買ったらいちおう聴いてはいたんだけど、以前のように「体中の水分全部人間椅子」みたいな感覚はなかった。わりと批評的な聞き方して、すぐにラックのコヤシに。

 もしかしたらこれは個人的な状況も反映していたかもしれないとも思うが、やはりどうしても「ラーメンズ」と「人間椅子」はkomugiko00の中で両立しない。
 とくに小林と鈴木。スイッチがそう簡単に切り替わらない。komugiko00内部で別の位相にあるようだ。

 komugiko00は、他者の表現を受け取るときに、自分の中のものを見ている。自分の中にあるものを、はっきり形にして見せてくれたとき、「あ、これだ」と思う。裏切りや驚きも含めてだ。
 そういう意味では山海塾とか和嶋の歌詞は、とても自分と地続きの感じがする。前世は兄弟でしたといわれれば、やっぱりね、ぐらいの。他人に出してもらっている作品なのに、食べなれたご飯やいつもの枕の感じがする。
 小林と鈴木はちがう。「いつもの枕」ではありえない。
 そしてこの二人はkomugiko00の中の両極の具現であるような気がする。

 最もsmartな部分を小林が、最もimo な部分を鈴木が、具現しているのである。

 あ、komugiko00は「舞台を降りたプレイヤーに興味はない」ので、あくまで彼らの作品(含パフォーマンス)とそれを生み出す意識と感じられるものしか見てない。考えてない。だから、ただ「舞台」を見て、「あ、これは私の極の風景」と思うのだ。(客なんだから当然だが念のため)。
 だからこそ勝手に「自分の内部のある種の具現」とかに設定できちゃうんだけど。

 小林が最近「ラーメンズ」以外をやっていて、komugiko00が、それをあのソーゼツなチケット戦線を乗り越えて行く気力がちょっと削げているところ。
 そこに、ロック系の刺激が、一つ一つはささやかながら重なって、そして極め付けがあの「電気仕掛けの怪」のライブである。開演10分前にチケット買って簡単に入れちゃって、またご丁寧に一曲目から『人間失格』なんて芸当をしてくれてさ。

 こうして現在komugiko00的には人間椅子完全復活なわけである。
 ちなみに最近ラーメンズのDVDは見ていない(^^; べつに「イヤ」じゃないけど。(鈴木モードのときに小林はイヤじゃないけど、小林モードの時に鈴木はイヤ……これは鈴木のねずみ男的宿命だろう)。

 次の政権交代はいつであろうか。
 あるいは両者の和解は?!


 あ。モエ〜だけど、鈴木の声がいいとか歌詞がすばらしいとかは一切思わない。それは事実に反する。それはそれで受け入れるというだけ。それでも思いいれの深度から言って、立派にモエ〜である←断固



怪人二十面相

怪人二十面相