観た!

観客。

四谷歌舞伎人形座 安達忠良・高橋操二人展

四谷のギャラリー晩紅舎で見てきた。
安達氏は木彫、高橋氏は粘土の、人形である。
この二人展を観にいくのは2回目、感想書くのも2回目。

ん〜〜〜〜〜〜〜。すげえ。


もともとkomugiko00は、人形というジャンルにとくに興味があるわけではなかった。自分が漠然と「立体作りたい」と思い、粘土でちょっと物を作り始めてから、粘土人形というのが一ジャンルとしてあることを知った、という順番である。
人体造形にはもともと関心があるので、なんとなくそのジャンルに目を向けたところ高橋操の作品を発見し、あ、これいい、と思ったのである。

自分が3次元の造形イメージとして持っている動きの「流れ」に通ずるものをそこに見たから、というのが最初の理由だ。
当時はこちらが粘土超初心者だったので、そこだけが見えていたのだが、ちょっとは製作を経験した今見ると、細部まで……「うめえ」のである。
丁寧な仕事も、丁寧すぎない塩梅も。うう〜〜〜。


歌舞伎というテーマは安達氏の提案で、高橋氏はそれほど詳しくなかったそうである。komugiko00は、まあそこそこ見込んでいる方だろうし、歌舞伎をモチーフにした別ジャンルの作品については、たぶん、ちょっと点が辛いかもしれない。
自分も作り手の端くれとして考えれば、型も衣装も化粧もすでに高度に完成された能や歌舞伎をべつの手法で表現するということの難しさもわかる(ふつーに考えて手ェ出さなくて賢明かと)。


だがそれが……いや、この二人の作家にはこのテーマ合っていたかも。いつにもましておもしろく見た。


高橋氏の人形は、どれも「いつもの体型」である。まあ、動けるデブ、か。
弁慶はともかく、お軽もおいらんも、その体型で愛らしいだけでなく、舞台上の役者の動きが見えてくるようだ。

お軽は、あの、手鏡で手紙を読もうとしているところ。
この場面、komugiko00は、ずーーーっと前に玉三郎で見た。あの細長くて超絶きれいな上に、まだ若かった玉ちゃんである。
高橋の太ったお軽を見ていて、あの玉三郎の舞台が、ふわああっとその周辺に湧き出てきたようだった。


助六を見てもそうなのだが……。
歌舞伎を他ジャンルで表現したものに点が辛くなってしまうのは、その「型」が表面的な「ポーズ」になってしまうきらいがあるからだ。高橋作品は、「型」の本質をもっていると思う。どれもが、歌舞伎役者がその華やかな演技の芯に持っている、撓めたばねのような「力」を、ちゃんと内包していると思った。


そういう意味では、あの助六なんか、高さほんの30センチぐらいだが、平櫛田中の鏡獅子と並び称してよい力を持ってるんじゃないかいな。
田中は、六代目菊五郎をモデルにし、下帯一枚で型を見せてもらった作ったそうだが。
高橋は着衣の上から、それほど多くない舞台鑑賞とDVDを資料にしたそうだが。
んーーーーー。そりゃあ役者に裸でやってもらえば一番だろうが、舞台の上でまさに動いている役者の動きは一番だろうし……どっちにしても、「見える人には見える」のだ。


狐忠信の宙吊りや、弁慶の飛六法など、歌舞伎でもその華やかな動きでみせるものは、もう動きの高橋(勝手に命名)の面目躍如である。六法って、歌舞伎としても〜のすごくかっこいいところだが、これが30センチの静止した物体に封じられてかつ迫力があるって……。


安達の方も、二つの意味で動きのある作家である。ただ置いておいても、作品が動きを「感じさせる」し、ちょっとした仕掛けが仕込んであって、人形が動くようになっている
これがまた絶妙。ちょっと首を振ったりするだけなのだが、それがまた、そこそこ歌舞伎好きの目からみると、膝を打って「そうそう!」と言いたくなる動きかたなのだ。


小さなギャラリーで、20センチ〜30センチ程度の人形群だったが、そこには圧倒的な広がりがあった。





なんかもう、こんな人たちがいるんだったら、komugiko00なんかがちまちまモノ作らなくっても、と思っちゃった(^^;;;;;; いや、作るけど。