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『羆嵐』吉村 昭


ひぐまあらし、と読む。


「これ読むと、自分達がエサなんだってことが認識されるね」
先日この小説を貸してやった友人が、返すときにそう言った。


大正4年、北海道北西部の村であった実話をもとに書かれたドキュメンタリー小説である。
未だ開拓途上の、インターネットやテレビはおろか、新聞も届かない村に、ヒグマが出た。



この小説を読むずっと前に、北海道開拓が始まったばかりのころについての記事を読んだことがある。
開拓に入ったのは、東北や関東の農民であった。関東から入った者はもちろん、東北から入った者達も、北海道の冬を乗り切ることができず、あまたの犠牲が出た。


この『羆嵐』は、大正時代であるから、北海道の冬を乗り切る最低限のノウハウ……家の建て方とか、ビタミンを補給できる食物の確保とかは、いちおうできているようだ。
それでも、開拓村の住居はワラと木で作られていて、農民達は銃も持たず撃ち方も知らない。


そして……そうだよなあ、津軽海峡にはブラキストンラインがある。生物学上の境界線だ。
クマが出た、と聞いても、開拓民たちが当初それほどおびえなかったのは、本州のツキノワグマしかしらなかったからだ。ツキノワグマは体長は人間の大人より小さく、草食系の雑食だ。
それよりずっと大きく、肉を食う「クマ」というものを思い描くことはできなかったのだ。


何が怖いといって、ここがまず怖い。
自分の体験していないものを想像できない人間のアタマである。


小説は、クマが村を襲い、村の人々が恐怖におびえながら森を抜けて他の人里へ逃げ……となる。


そして友人の言うとおり、自分達(ヒト)はエサである。ミもフタもなく淡々とした事実としてエサである。
農民は銃を持たない。隣村には銃を持った人が独りいるが、ろくに撃ったことがない銃は状態が悪く、持ち主の腕ももちろん悪い。


「エサ」というのは、実際に食べられるかどうかはべつとして、「抗いようがない」という意味だ。
現代でも変わらない。そのことを実感しない環境で生活しているだけの話。

小説は、当時の視点からのドキュメンタリーなので、動物の習性についてなどは、現代はべつの見方があるかもしれないが、しかし、それも時代のリアリティのうちである。


友人は、これを映像化すればいいのに、と言っていた。
調べてみるとドラマや映画になっているようだが……。
でもね、人間の側に比重を置いてしまったら、この小説の持つ圧倒的な自然の存在感がでないと思うのだ。


冬の話だ。夏に読んで、心底スズシクなること請け合い。




羆嵐 (新潮文庫)

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