観た!

観客。

『薔薇のない花屋』



このドラマのほんとうの主人公は舜だろう。komugiko00の主観的には。


英治と舜は、「光と影」として位置づけられ、「トゲ」を全部内側に向ける者と全部外側に向ける者として描かれている。
それはもちろん物語を編む上での術で、本来二人は一人の人間の内部で矛盾し相克し理解しあっているものであるはず。俺達が信じるのは俺達だけ、という言葉は、つまり自分だけを信じているということ。


ほんとうに描かれるべきなのが舜だというのは、彼が自分の救われなさを囲ったまま生き、周囲に受け入れられないまま、周囲を受け入れないままでいるからだ。
彼には解決が用意されていない。
それこそがほんとうに描かれるべき現実だ。


連続ドラマの前半で、英治が一瞬見せた酷薄な表情、一度口にした「自分の中の残酷さ」。それはすべて英治の持っていた、持っているものとして描かれるのだと視聴者に予想させた。
だが、それはそうではなく、英治のその部分を請け負った人物として舜が現れる。英治はその闇の部分を舜に渡して、その対称となる側に完全にまわってしまう。
なぜか? それは天下の「月9」で、視聴者が安心して物語に入れ込み、人物に感情移入し、そして理解したり癒されたりするため。
人々は英治は受け入れても、舜は受け入れないから。
だから視聴者に英治を受け入れさせておいて、そのうえで、登場人物たちから受け入れられない舜の姿を一歩離れて見せることで、結局舜を描くことをやってのけた。
脚本うめぇ。


そもそも月9はshinbahiの好きなもので、komugiko00はそうでもない。
しかし今回たまたま、初回、shinbahiは見ていなくて、komugiko00はなんとなく見た。前宣伝から、なんか感動の家族もの親子もの? ウザ、と思いながら、ほんとうにたまたまその時間テレビの前にいたから見たのだ。
第1回をみてぶっとんだ。「すごい!」とshinbashiに言ったら、「だって野島だろ?」とあっさり言われた。脚本・野島伸司である。
その後、率先してkomugiko00はこのドラマを見続け、shinbashiに、「たしかによくできているけど、今回のきみのはまり方はちょっと異常だ」と指摘された。
ん、そうかもしれない。その理由は自分ではわかっているが……名も無き戦士、という言葉によって、解かれたものが自分の内部にあるから、かな。


血がつながっていなくても一つ屋根の下に住んでいれば家族だ。
ん、そうだ。
そしてまた、そこに「家族」という名前をつけなくてもいいじゃないか、とも思う。そこは「場所」であり「関係」であり、それで十分だ。
「家族」という言葉や概念にささくれ立つものが私の中にあり、それを負ってくれるのは英治ではなく舜である、という構造か。


「だれの手も離さないあなただから、幸せの真ん中にいていい」という言葉があった。それは深読みすれば、「だれの手をもとろうとしない舜は、幸せからはじきだされる」ということになる。
それならば、英治があの一瞬見せた酷薄さを外に出したなら、あの人たちはあの場からいなくなるということだろう。いや、それは当然だ。当然だが、だから舜は彼らの手をとりたくないのでしょ?――いや、表現が未熟だな……まあ、いちおう記しておく。あとでまた思考する。


思うことは。英治は、他人とつながり、他人の手を離さず、他人の中で幸せになることができた。
では彼は、自分の親の手も、あんなふうにとることができるのか? 美桜が憎んでいたはずの父に執着したように執着できるのか? 
ここでもうまいと思う。美桜が憎んでいたのは、「自分の目の前にいない」父の記憶だ。だから現実に父が「いる」ことになったとき、その感情は変化したのだろう。だが、英治にとっては、親は「いた」のだ。いたことによって問題が生じたのだ。
他人と関係を築くココロの方法を彼は身につけた。それは他人という距離だから成功しているのではないか。親が出てきたら? ……そこは描かれない。
それはまた別の物語なのだろう。


このドラマ、香取慎吾の使い方が好きだった。komugiko00は抑え目で、裏側を想像させるタイプの演技をするときの彼が好きだ。はまった理由はそこにもあるとは思うが、このドラマの場合は、その「裏側」に描かれているものが、たぶん私にとって「見る必要」があるものだったのだ。
そして、慎吾の演技を毎回楽しみにしつつも、ドラマの主役はやはり結局舜だったのだ。「ひとしずく」はかけがえのない大切なもので、べつの言い方をすれば、「ひとしずく」さえ得られれば、このまま孤高に生きていくことだってきっとできる。そうしてほしいとも思うのだ。





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