観た!

観客。


このブログからアンテナを立てさせていただいている「雷神倶楽部」のギタリスト様の影響で、もう何年も触っていなかったギターに触ったのが数ヶ月前。

もんのすごくたのしかった。

前からたいして弾けたわけではなかったのだが、手はそこそこ覚えていた。ネックの太さとか、弦の間隔とか、意識しないでなじんだ。shinbashiに「スケールギタリスト」とあだ名されるほど基礎練習やっていた賜物かも。
弦を押さえて、弾いて「音楽」が出てくる感覚とか、この音を出すためにどういう運びにすればいいんだろうと考える感覚とか、そういうものが楽しかった。

んではりきってギター練習しようと夢は膨らんだのだが、結局またやっていない。
どうしてかというと、粘土の展覧会に2月と5月に出す運びになったからだ。
忙しいとか時間が無いとか、まあそれはそうなのだが、ちょっと遊ぶ時間が無いわけではない。

「手」がふさがった、という感じなのだ。
ギターも「手」を使う。粘土も「手」を使う。
同じ手を使うものがかぶってしまい、それならば粘土だなと。

これは自分でちょっと面白い感覚だった。
思うに美術系のものは「目」でやるもの、音楽は「耳」でやるもので、「手」はそれらにしたがって動くに過ぎない。
でも、もっと言えば、美術も音楽も「思考」だな。思考・目・手のものと思考・耳・手のものなのだ。
そしてさらに手は思考に戻る。

粘土などで造形するのは、もちろん手を使っているが、創りながら思考を練り、思考を象り、思考を刻み、思考を磨き、思考を塗る。
体の中で頭と手にルートができて何かが交流しているのを感じる。
手を止めても、その交流は止まらない。
そういう状態でないと制作ができない。

つまり思考と手が、「目」系の作業でふさがってます、という状態。
この状態になれるのはかなり幸せなこと。



からしばらくギターには触れないかも。思考が流れないのだ。

まあ、このことを離れても、komugiko00の場合「目」と「耳」のチカラが全然違う。
粘土を触るときは、自分の思考が手から象られることを快適に思いながらできる(迷いもいらだちもありつつ、でもね)、交流の河は広く、流すほどに深くなったりする。楽器のときは、この交流はいたって細い。ちょっとしか太くならない。
まあ、一度基礎技術を身につけたギターを弾かなくなってしまったのもそのへんなのだろうけれど。技術ではないのだよね。

そうは言っても、粘土でにゅる〜とシェイプを作るときと、ギターでチョーキングするときはちょっと感覚が似ている。自分の「さじ加減」なところがってゆうか。

komugiko00の目と耳のチカラの最大の違いは、「創る」ことができるかできないかだ。
完成度はおいといてね。
交流の河の太さと深さの違いはここに起因する。


音楽は自分で作ることができない。だから聴く。自分が創りたいはずのものを外界に探す。アートは自分で作るのが好きだ、一番。


ギターでも「創る」を試したことがある。まあ、もちろんある意味気持ちよかったけど……。まあね(^^;;;;その場限りのものでしょう。「完成」はしない。自分自身でも、「完成」がイメージできないのだ。アートの場合はイメージできる。ある段階から。宝探しみたいに、自分の感覚を切り分け、掘りさげ、そこにうまっている「完成」を探り当てるのだ。それが楽しい。

アートでは、「見本どおり」が苦手なのに、音楽では「見本どおり」しかできないに等しい。


でも、「見本どおり」であっても、自分の「手」で音を作る感覚の楽しさは思い出させていただいたので、遠くなくまたやってみよう。
まあ(^^;;;展覧会に間に合うのか?!のパニックを脱したらね(^^;;;