観た!

観客。

いちおう新盆なので


こういう話題には関わりたくない&まきこまれたくない庶民だが、ちょっとだけ、ごく主観的な話を。今年の8月15日は、父の新盆でもあるわけで。


父は大正末期の生まれで、学徒動員で出征した。配属された場所の関係で、戦闘も無く、戻ってきた故郷で生き延びて、後年子どももできたりするわけである。
しかしそれは「たまたま」で、学校の同級生や、旅順や小倉でいっしょに訓練を受けた人たちが何人も死んでいる。今から振り返れば彼のいた場所は「ラッキーだった」ということになるが、そのときは彼らと同じカクゴをしていたわけでもある。


一度だけ、父がこうつぶやいていたことがある。
「こんな日本にするために、あいつらは死んだのか」


こんな日本、というのがどういう日本を指してしたのかはわからない。
ただ、父は靖国神社に参拝したことはない。
小学生の頃、一度靖国神社につれていかれたことがあるが、それは他の史跡や名所と同じ感覚であった。


それが作られ、存在するという事実は伝える。
「参拝」の意志はない。
戦死者への思いは深い。


それが大日本帝国海軍少尉という肩書きを一度は持った(持たされた?)父の戦後のスタンスであった。


私はそれに共感できるので、靖国神社参拝は支持しない。積極的に反対行動もしないが。




死者はすでに物質でありその物質もすでにほとんど分解されている。霊がどうこうという考え方は私はしない。だからまあ、「霊を祀る」という思考・感覚自体ないわけだが。昨年死んだばかりの父も同様だ(「おれの骨はトイレにでも流せばいい」と言っていた←んなわけにはいかんよ、法的に。でも法的に禁じられてなかったらやりかねない親子ではある)。
ただ、「こんな日本にするために、あいつらは死んだのか」というつぶやきは、共通体験の無いままなぜだか受け継いでしまった。「あいつら」がどういう人だったかという話も具体的にほとんど聞いたことがないのだが、頭の中にそれらの人影が存在感を持って、いるのだ。
だからこそ、靖国という「形」、参拝という「形」にはなじめない。「こういう日本」という毎日以外に、慰霊の道はないだろう。いや、「霊」はないから「慰霊」もないけど(^^;、父の呟きへの答えは、靖国神社や参拝や、それを廻る内外の論争では、出せっこないとは思うのだ。
政治だけではない。経済・教育・文化・生活・価値観・人心、すべてひっくるめてだ。
社会に関心ありませーんという人間になりたい、ロックとお笑いで和む以外関心が無い人間になりたい、べつにいいじゃんで生き抜く人間になりたい……のだけれども、ついたま〜に、「あいつら」のことを考えてしまう。「これいいのだろうか」と思ってしまう。
具体的に知らないからこそ、なにか抽象的な……まあ結局は、自分の「良心」的なものの影が投影されてるだけなんだろうけど。


だから、靖国神社は参拝しないでほしいです。なくしてほしいです。論争もやめてほしいです。
そのための時間と労力とお金で、もっと、このためにあいつらは死んだのかもしれないな〜、というつぶやきに変わるようなことができると思うからです。




ま、実際にはその学徒兵たちが死んだのは、「なんのため」でもないわけだけどね。国家が戦争を選択したから(←すごく端折ってるが)、その駒として死んだだけなんだけどさ。
んなことは親父だってわかってる……ってゆうか本人まさに駒だったし、駒になってからはっきりそれに気付かされたわけだけど。


A級戦犯の孫たちの話がテレビなどで流れている。あそこに祀られていることへの肯定的な思いを語っている。もちろん、戦後行き過ぎの批判なども浴びる立場にあった人々の心の支えにはなってきたのだろうな。
A級戦犯、という言い方自体は戦勝国からあたえられたものだから、現在それによってイコール戦争犯罪人とする必要はないと思う(「戦争犯罪」というもの自体が政治的なものだから)。
ただ、あの時期に戦争を選択し、推進した人々であることはたしかであり、そのへんの構造や展開を、社会「科学」としての歴史学で客観的に読み解き、公にしていくことは非常に大切だと思う。
のっぺりした「悪い」というレッテルを貼るから遺族も納得できないのであって、歴史学的にきちんとした調査・分析・評価がされれば、すこし気持ちが変わるんじゃないの?
それをやりつつ、靖国神社は……祀られている人の孫がみんなお亡くなりになった時点で廃止、ってことでどうでしょうね。
……御霊が祀られていることに意味を見出している人の価値観は、たぶんそれがずっと祀られ続けることも望むんだろうな。だからだめかなあ。
でもま、私の希望は、そういうものです。



あ、私、歴史と政治と社会に無知で、こういう議論に巻き込まれたくない小市民です。
今日は新盆だから、親父の霊と会話してるだけだと思って、放置してください。
もちろん、ナスやきゅうりの馬も灯篭も、なんの儀式もありませんよ。うち東京だから親戚や友人の帰省とかもないし。お盆はちょっと町が空いてうれしい時期ってだけ。骨をトイレに流していいなんて言う霊は、なんの道具が無くても宿るもんです。
あれ? 霊って……(^^;
あ、言霊、でしょう。
親父の体はもうないし霊も存在しないけど、言霊は残したって、んだけっすね。