観た!

観客。

没後30年 高島野十郎展


          於:三鷹市美術ギャラリー



具象の中の抽象。
2,200円でカタログも買ったが、これは単なる備忘録的役割のため。
この絵画は、「ライブ」でなければ受け取れない。


写生を重要視したという。
隅々のものまで描き出すことを慈悲と呼んだという。
情報は私にそう言う。


ただ、私が感じたのは、彼には世界が事物がこのように見えたのだということ。
世界が抽象として視覚に映るのだ。だから具象がこうなるのだ。


あの花は、椿も、けしも、現実の花があんなに際立ちはしない。
通常の視覚機能には。ただかれの視覚機能には、まさしくあのように見えたのだ。だからそのように描いたのだ。強調をしたわけではない。


ゴッホの影響が一部に見える。影響を受けた描いたものは「手法」だったろう。
だが、影響を受けた理由は、それぞれが独特の視覚機能を持っていたからだと思う。


実はkomugiko00は、平均的でない視覚認知を持っている。
つい最近まで、それが平均的ではないとは知らなかった。みんながそうだと思っていた。
だがどうもそうではないらしい。
その視覚のとおりに話すと、飛躍しているとか気を衒っているとか言われたものだ。単純にそのまま話しているのに。
だから思う。高島は「表現として」このように描いたのではなく、このように見えていたのだと。komugiko00とは種類が違う視覚で、私にはこのようには見えないが、想像することはできる。彼には見えたんだよ。ただそれだけだ。彼自身も自覚していなかったかもしれないが。


好きなのは初期の自画像。これはおそらく、その後書き続けた風景の下絵にすべて入っているもの。
滞欧当時の絵の中では、舟を描いた数枚。曇っているように見える空の手前で、そこだけライトを当てたように際立っている、艫、帆。
雨の、法隆寺の塔。もしくは、塔のある雨の風景。
『御苑の大樹』、風景として小さな人間たちを配しつつ、樹。
そして、『割れた皿』これはすごい。他の風景は、言語でも描けると思う。この皿は、この「一枚」の絵で全体が見える割れた皿は、きっと言語では不可能。komugiko00のように自分の感覚をとりあえず言語化したい貧乏性には、黙らせられてしまう一枚。
それにくらべると、太陽や月を描いた一連は、美しいが言語が介入した視覚なので、少し退屈。
十枚の蝋燭の絵はとてもいい。魅力的。惜しむらくは展示者が照明に凝りすぎたこと。1号キャンバスに一本の蝋燭が描いてある絵を暗い部屋に並べて一枚一枚スポットを当てている。まるで小窓の蝋燭のように炎が輝いて見える。揺れてさえ見えるかもしれない。だがこの「見せ方」は1枚でいい。あとの九枚は、ふつうの照明で見せてほしかった。そのほうが絵の力が見えるのに。


カタログには、解説がたくさん載っているが、今は読まない。
今日見た記憶を反芻する楽しみが終わったあたりで、外部情報は入れよう。



野十郎の炎

野十郎の炎