観た!

観客。

「オセロー」 ロイヤル・シェークスピア・カンパニー

2004年の4月に観た芝居のことを今頃書く。
いや、当時長大な感想を書きかけていたのが、ファイルが壊れてくじけたままだったのだ。2年経ってもまだ印象的なことがあるので、記しておこうかと。

http://www.horipro.co.jp/othello/


ロイヤル・シェークスピアの芝居は、テレビでは観たことがあった。
でも、一度は生で観ておきたいなあというわけで、とくに演目が何だからということもなく出かけたのだった。
その年の出し物は『オセロー』。
この芝居を、過去のことではなくて現在にもつながるテーマだという理解を見え見えにしての演出=現代の軍服を着る等で見せているもの。

本物のシェークスピア役者の声に聞きほれ、イアーゴー役者の熟練にほれ込み(これはイアーゴーのドラマだったと言っていい)……ただ、ある意味とても疲れた。

幕間の休み時間に、後ろの席の若いカップルが、こう言っていた。
「なんであの人(オセロー)あんなにこだわるの?!」
「はっきり言えばいいじゃん って思うよなあ」
ん。それはまさしく私の感じた正直な気持ちであり、なぜ疲れたかというと、そういう感情に対して、自分の知識と知性が、「人種・性差に関する時代性と地域性を理解せよ」と命じて情報を出してくるからだ。
ただでさえわからないシェークスピアイングリッシュをがんばって聞いている上に(いや、「音」としてかっこよかったが、ついアタマでも受け取ろうとしちゃう)、ここでも自分の中で「翻訳」作業が必要だったわけだ。

いままでも『オセロー』の舞台を見たことはある。しかし、日本人同士でやっている分には、そのテーマが「人種」「異文化」にのっとっていたとしても、それほど大きな違和感を持ってはいなかった……というより、テーマが薄まっていたというべきなのかもしれない。

このときは、オセローはじめ黒人の役は黒人の役者がやっていた。
オセロー役は、南アフリカ共和国出身者。
イアーゴー役は南アフリカ出身の白人。
つまりこの二人はつい近年までアパルトヘイトが政策として行われていた国の出身者であり、シェークスピアカンパニーがイギリスの劇団であってみれば、リアルに因縁ある仲である。
白人の熟練俳優のイアーゴー、黒人の若手俳優のオセロー。

プログラムを買った。芝居のプログラムは、つまらないこともあるが、この場合は、おそらく、日本人がこの芝居を理解するために非常に重要な情報が載っていた。
役者たちが、この内容について、何度もディスカッションを重ねたこと。
現代でも人種差別は残りつつ、知的で文化的な白人にとってはそれはいけないことである。その白人の役者たちが、芝居とはいえ、本物の黒人に差別的な言葉を吐いたりそういう態度を取ったりする。黒人のほうは、アフリカ出身者がヨーロッパで俳優として生きているのだとすれば、それは形を変えて、「過去ではない」ものであるに違いない。
それは彼らが越えなければならない壁だったのだ。
もちろん、一つの芝居を作っていくためには、俳優陣の信頼関係は必要だろう。この場合、通常以上にそれを必要とした。

その葛藤は、芝居に出ていただろうか? それを感じ取って、私はあんなに疲れたのだろうか?
イギリスの観客には、あれはどのように映るのだろうか。

オセローが怒りの場面で「アフリカ的な」感情表現を見せたりするのも現代的な演出であり、オセロー役が深い思い入れで演じていたことも理解できる。
だが、どうしてもイアーゴーが印象に残ってしまったのは……役者の力量だけでなく、おそらく演出家の意識そのものも、これはオセローの問題というよりもよりイアーゴーの問題としてとらえていたせいではあるまいか。
この芝居を「現代を映す」ものとしてみるならば、「差別者の側の葛藤」が、そのテーマであったのではないか。

現代においては、被差別者の葛藤と苦しみは、ある意味ストレートに表現されてよい。現実ではまだまだ問題が大きいものの、表現の場では。一方、差別者の側の問題のほうが、表現するに手法を選ぶに違いない。
あのイアーゴーは、単に卑怯な脇役だったのではなく、《観客の内なるイアーゴー》という主役として描かれたのであったろう。




オセロー (新潮文庫)

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