観た!

観客。

『どろろ』


テレビでやっていたので、shinbashiと観た。
ふたりとも原作のファンで、アニメも見たことがあり……というわけなのだが、かなり包容力のある客……「これはこれなりに」という見方ができるようになってきたのだが。


映像技術は、まあ、最近ですから、きれい。マンガやアニメ発表当時に実写化したら絶対に不可能だった表現ができている。
キャストは、まあいい。
妻夫木聡がわれわれにはわりと好評である。顔が丸くて、原作の方の百鬼丸を髣髴とさせる。原作は多分、元服するかしないかの10代の設定だと思う。現在のツマブキくんはぜんぜんふけているわけだが、成人男子としてあたうかぎり、「昔の少年漫画の主人公」っぽいカオカタチである。
どろろが女だという設定(原作最後に急に出てきて意味不明だった)はヤだけど柴咲コウはよい。女に男風の演技をさせる演出、彼女ならわざとらしくない。
まわりもまあよかろう。


と、いろいろ受け入れながら観ていたのだが、三分の一ぐらいでshinbashiがつぶやいた。
「これ、ときどき原作なぞってるから、フラストレーションがたまるな」
うん(^^;


最初のお堂が、すごく原作の絵を思い出しちゃったし。そしたらそれ以降ちょっと違うし。
二人して原作のセリフとか覚えていてときどき言いながら観てるし(^^; でも風景がホドロフスキーみたいだったりするし。
まあ、いきなりナントカ暦3000年とかで、皇紀だって2600年だぜ、っていうなぜかファンタジーだし。いいけど……。
やっぱりむずかしいわこれは。べつに原作と違うとか、ありえない設定とか、そういうのはイケル口なのだが、その必然性が、こう……。



医者が、なんか科学者だか呪医だかで、妙な手法で子供たちの死体から生身に動く手足を作ってやるくだり。
んんんんーーーーー!
「原作はただの義手とかだったよな」
「たしか木で彫ってたような」
まあ、ありえないんだけどさ、木の義手であんなに動けるって言うのは。でも、それをそこまで使いこなしちゃう主人公で、それを疑問を持たずになっとくしちゃう読者で、それが昔の少年漫画の楽しさだとも思うのだよ。
ウルトラマン研究序説』はおもしろい本だったが、あのあと、浅い突っ込みが客に流行った感じなのはヤだったが、この説明もなんかそんな感じ。
おかげで百鬼丸は、生身の胸刺されても治っちゃうし。『無限の住人』か(^^;


義手が落ちて手が生えた後、いままで使った義手を、塚を作って埋めてやる、というシーンもなくなっちゃうし。そのときに、「手の塚だから手塚だ」っていうつまんないシャレを言っていたのもなくなっちゃうし。

あ、それで言うと、目が見えるようになったとき、まず夜だったから「まぶしい!」がなかったし。「どろろ、おまえこんな顔だったのか、意外とかわいいな」もないし。なんかその辺の軽さがいいんだけどさ。

いいけど(^^;



んで、もちろん、ラストがどうなるのかなあ、である。何しろ原作が突然終わったから。



shinbashi「あれ、ちゃんと終わってないんだよな。まだ魔物残ってるし」
komugiko00「それはかまわないんだよ。物語として。今でもまだ百鬼丸はどこかで魔物を探している、というのはあり。ただ、妙にいそいで終わったよね」
shinbashi「それでいうと、アニメのほうがちゃんと終わってたよ。母親が狂って、それでラストだ」
komugiko00「狂って終わりって、安易だよ。現実的じゃないし」


そう、原作のラストで、両親に会いながら決別する百鬼丸、悔しがる醍醐、私たちにあの子を恨む資格は無いわと去っていく母……これ、今考えてみると好きかも。
なんか昨今の「本当は愛し合っていた」で解決しちゃう家族が、それこそ安易でイヤなのだ。
この映画ではどうするかなあと思ってみていた。ところどころ妙に感情的なセリフが入って、ちょっとイラっときたところもあったから。


で、どうなるかなあと思ったら。
ふーん、母はあっさり醍醐が斬る。つまり脚本は、彼女は「母」という類型以上に描く気はなかったということだ。まあ。もちろんこれは醍醐の物語だ。醍醐、という男をいちおうしっかり描くわけね。
まあ、役者が中井貴一だからな。原作にカオも(演技上の)キャラもそっくりなのは本田博太郎だとおもうけど(^^; この人物像なら中井だろう。


多宝丸も悪くなかった。shingahiは最近瑛太お気に入りだし。
でも、komugiko00はほんとうは、原作の、高圧的支配者を父に持ってすくすくと育った高圧的ぼっちゃんな多宝丸がすきなんだよね。
あのキャラだったら、映画のように母親が、見知らぬ青年を「多宝丸」と呼んでも、「ふん」と鼻で笑って終わりだと思う。それが、足りないことを知らずに育った人間の余裕だと思う。
子供心に、「百鬼丸」と「多宝丸」という対称的で象徴的な名前の印象が強いから、多宝丸には欠落を知らない傲慢な幸せ者であってほしいキモチはあるのだ。



で、結果的には、家族は誰も悪い人はいなかったし、百鬼丸は家族の誰とも決別しない(両親とは「死別」だ)。
いまどきだなあ、と思うと同時に、逆に原作のいさぎよさを理解した、という図式。


……ああ、それで、ちょっと未消化だったのは、どろろが「恨みを捨てる」というところ。
醍醐を倒したかった理由は、個人的な恨みだけじゃなかったはず。原作では。
圧制者に対して自分達の権利と人間性を主張し物理的に獲得していく民衆の物語だったはず。それがどろろというキャラクターの位置だったのだ。
鯖目の話でその要素は終わったわけね。
それじゃ女が男の振りしている意味がなくなるじゃん。
まあ、原作が書かれた時代にめずらしくなかったこういう発想が、「サヨク」として流行らなくなった現代のどろろってことでしょうかね。

それで、百鬼丸には、体をとりもどした後には「人の上に立つ」運命が用意されてるって。ふーん。


サヨク的はともかくとして、本来どろろはある種の社会への視野がひらけていたはず。それが個人的恨みや愛着などにすりかえられたわけだ。これはもったいない。
……ああ、それが原作での「別れ」の意味でもあったわけだな。自立し、社会へかかわっていくていくどろろと、自分の問題解決のために社会的かかわりとべつのところで自立への過程を踏む百鬼丸


映画では、そういうのないわけね。個人的人間関係に見出すしあわせがすべてなわけだ。


最後に、つまんないことですが。
どろろ百鬼丸を「蹴り上げる」ところ。あ、そこはあったんんだ、って思っちゃった(^^;
「そこはまだとりもどしてない」って言えばおもしろかったのに!! 



……えー、全体として。
ついいちいち原作を思い出してしまうことを割り引いても、ちょっと半端……。原作を知らない人が観ればこれでもおもしろいかな、とも思えないし。
ま、テレビでやってたから見てみる、ぐらいでいいかな。


どろろ (第1巻) (Sunday comics)

どろろ (第1巻) (Sunday comics)

どろろ Complete BOX [DVD]

どろろ Complete BOX [DVD]

どろろ(通常版) [DVD]

どろろ(通常版) [DVD]

無限の住人(1) (アフタヌーンKC)

無限の住人(1) (アフタヌーンKC)

エル・トポ [DVD]

エル・トポ [DVD]