観た!

観客。

自由に生きる


ひさしぶりにあった人から「10年前と変わらない」といわれた。「若さの秘訣はなんですか?」とも聞かれた。「大人気ない性格」と答えたが、「それなら自分もそう。なんでそんなに変わらないの?」とまた何度も聞かれた(^^;
その意味がずっとわからなかったのだけど、最後にその人は言った。
「komugiko00さんは、とても自由に生きているように見える」
ああ、そうか、そういう意味か。
まあ、それほど親しい人ではないから、いろいろこちらのオイエの事情は知らないし、ある意味komugiko00の外壁を見ての感想、ともいえる。でも、shinbashiにこのことを話したら、笑いながら、「自由に生きてるよ」と言った。
否定しません(^^;


ある意味「自由に生きている」というのは(もちろん完全に自由ではありえない。物理的肉体を持って社会的現実を生きているのだから)、どうしてかというと。
「自由に生きよう」と思っているからです。
というのが答えだ。
たぶん。いままでとくに意識したことはないけど。


「鳥のように自由に、というけれども、鳥は自由ではない。天候や餌や、さまざまな条件に拘束されて生きている」
という。
でも、鳥は飛んでるじゃん、と言おう。
生物学的正確性は無視ね。比喩としてだ。
鳥はさまざまな条件に縛られつつ、でも飛んでるじゃん。


自由に生きるというのはそういうことだ。さまざまな条件を受け入れ、拘束もされ、でも「飛ぶ」という一つことだけははずさない。
妥協や譲歩や交換条件や諦めや放棄は当然つきもの。それをしまくって、「飛ぶ」のだ。
そこまでして飛びたくない、という選択もまた、自由だ〜! である。



で、一つだけ、自由のためにはずさずにきた現実がある。「てめえの食い扶持はてめえで稼ぐ」である。人に養ってもらったり、うまい話に乗ろうとしたりしない。稼ぐからにはほら、制約や譲歩やいろいろである。そのかわり、生活の基盤が自分のコントロール下にあるわけだ、ささやかでも。


もう一つ、意識の上であるとしたら、「正確であろうとすること」。
これはある友人からの感化。「『正しい』という考え方はしない。大切なのは『正確』であること」と彼は言った。
「正しい」というのは判断を終えた価値観。そこで止まる。それで現実を分類する。「正確」というのは観察であり、多様性であり中間性である。そこから広がる。さらに現実を発見する。
その認識は自由への初乗り切符だと思う。
正確である、ことはたぶん不可能。人間嫌でも偏る。偏りながら正確で「あろうとする」ことが、まあ、おもしろいのだと思う。