観た!

観客。

ロックライブの構成でいいじゃない


今年はもう「ラーメンズ」は見られないのだろうか。
小林・片桐の個々の活躍は喜ばしいかぎりであるが、しかしkomugiko00が好むのは、「ラーメンズ」という「手法」であり「ジャンル」なのである。
ほかのはそんなに魅力的じゃないんだ。今のところ。


個人的願望としては、年に一度ぐらいはライブをやってくれればいいと思う。
新作本公演であればベストだが、べつにそうでなくてもよい。過去のネタを再編したり、ベスト集にしたり、まあ『零の箱式』方式でよい。
演劇でも音楽でも、再演というのは普通だ。ロックバンドなんて、デビューアルバムの曲を何十年もやりつづけたり、初期のヒット作ははずせなかったりするわけで。"Smoke On The Water"をやらずにDEEP PURPLEのライブが終わることはできない……っていうのは伝説かなあ、でもそんな気はする。人間椅子だってそうである。新作出したときのライブは新作中心で、それはそれでよいのだが、7月のライブでは「あの」『りんごの泪』で、新旧のファン狂喜乱舞。かつて聴いていれば年数分積もった愛着が、初めてであればさかのぼれない過去を目の当たりにするうれしさが、それぞれあろうというものだ。
ラーメンズが『読書対決』なんかやったら、『淫獣』並みの歓声だろう。←komugiko00の身近で、ラーメンズ人間椅子を同じ比重で話してついてこられる人は二人しかいないので、このたとえがわかる人口の少なさは承知のうえ(^^;

ラーメンズのネタが、古典落語のようなものだ、つまり繰り返し見る面白みがあるもの、という話題が、komugiko00の管理サイトで出ていたことがあるが、それはそうだと思う。


だから、古典落語をまたやるように、ロックバンドのライブ構成のように、ラーメンズの公演をやってもいいんじゃないかなあ……と思うけどね。


もちろんね、「いいもの」を見ちゃったら、それは一生もの、というのもある。
中村勘九郎の舞台ではいくつもそういうのを見せてもらったし、人間椅子なら、10年前の『踊る一寸法師』、この7月の『芋虫』の名演は、いまわの際にその記憶にひたりながら逝きたいぐらいのもので、だからもう二度と聴かなくてもある意味十分な満足度であるが、でも、またやってくれるなら聴きたくもあったりする。


ま、前のほうがよかった的に思うこともあるだろうけど、それはそれ。「生」の宿命であり鮮度であることは、演者も客も納得づくのはずじゃあないか、おまいさん。てなもんで。



まあね、そうやって切り崩してしまったら、「ラーメンズ」の「手法」じゃない、っていう言い方もできるかもしれない。その公演の流れ・構成・音楽・衣装、すべて細部まで見渡しつつ構築して、それで初めて「ラーメンズ」だっていう。
それもあると思う。komukiko00は、たとえ一ネタでも、ラーメンズという「ジャンル」は成立すると思うけど。思うけど、すべては小林賢太郎がどう思うかにかかっておりますね。
ま、ラーメンズも、二度と見られなかったとしても、臨終までもっていくステージは見せてもらったからいいんだけどね。


あ、例によって、komugiko00はネタ以外の情報しいれていないので、彼らがどっかでなんか語っていたとしても、知りません。ただ、ネタが好きなだけの客の感ずるところの一つなだけであります。


ラーメンズ」というジャンルにしか興味はない。んだけど、『大喜利猿』の本は買っちゃいましたけどぉ。



大喜利猿----小林賢太郎×升野英知

大喜利猿----小林賢太郎×升野英知