クドカン@ホモソーシャル
宮藤官九郎は、ホモソーシャルな作家かもしれない。
『吾輩は主婦である』を見ているうちに、なんとなくそう思った。
http://www.tbs.co.jp/ainogekijyo/syufudearu/
彼の作品は男ばかりもしくは男が中心で女は周辺。男同士の関係で世界は成立している。
初期の『熊沢パンキース』が象徴的。komugiko絶賛の舞台『鈍獣』も、そういう構造だからこそ、一癖も二癖もある男優陣とアイドル系女優陣という組み合わせでうまく成立したともいえる。
彼の手がけた作品で女が重要な役割を果たすのは、komugikoの知る限り、『池袋ウエストゲートパーク』と、先日の『メタルマクベス』だ。いずれも原作がある。
あ、そういう意味では、シェイクスピアとは相性悪くないかも。
以前、シェイクスピアシアターにいた女優の話を聞いたことがある。曰く、シェイクスピアに出てくる女は、お姫様(女王)か小間使いしかいない。男はいろんな種類の役があるのに。シェイクスピアシアターは、シェイクスピア専門の劇団だ。すると、同期で入った男優たちがいろいろな役を振られていく中、女優はお姫様タイプで無い限りいつまでも個性の無い小間使いだけだ。これは、シェイクスピアの時代に女優がいなかったためかもしれないが。
彼女は数年後に退団して、一般の劇団に移った。
一人もしくは少数の特別の女と、無個性な女と、あとは男たち。宮藤的世界かも。
shinbashiがときどき言っていることがある。
クドカンは好きだが、一つだけ嫌なところがある。ヤクザに憧れているみたいなところだ。池袋はいい。あれは原作にもあったし、石田衣良は本物を知っていて書いている感じがする。でも、クドカンは、知らないで憧れているだけのような気がする。
なるほど。それはkomugikoは気にしていなかったが、やくざもある意味ホモソーシャル……と思ったら、クドカンのやくざには「あねさん」らしいあねさんが出てこないね。さすが。
クドカンはある意味「ホモ好き」である。ホモセクシュアルな男性がわりと出てくる。だが、ホモセクシュアルそのものがテーマなわけではない。それはホモソーシャルの、イメージ化の一つだろう。
ま、これまではホモソーシャルなヘテロ男たちはホモフォビアを持っているとされてきたわけだが、この点で「今時の男」は違うっていうことだね。
てなことを考えたきっかけは、『我輩は主婦である』なのだが、これを私は毎回ちゃんと見られるわけではない。たまに断片的に見ているだけなのだが……。
でも、「クドカンが昼ドラ!」というニュースを聞いたときから、「従来のものと違う」だったわけだ。
ま、たまに見るときにはそういう先入観もあって見るわけで、従来とどこがちがうかな……的関心もあるわけで。
そうしたら思い当たった。
これ、女優が演じているけど、主人公は女じゃない。なにしろ夏目漱石が乗り移っている。オトコなわけだ。
そういう意味では、クドカンは、レトロな言い方で言えば「女が書けない作家」だろう。それは、世代的に言っても、そういう批判をされた男たちのように女を人間としてみる気がないとかそういうことではなく、男同士の関係を快適と感じながら生きている男、っていうことだと思う。
「昼ドラを書いてくれ」と言われて、もちろん彼はひきうけた。
昼ドラを見るのは主として主婦とされる。女とされる。主人公は通常女だ。さて。
彼はそこに漱石というおっさんを持ってくることで、昼ドラを自分の世界に引き寄せた、無意識のうちに……と思った。
それはおそらく、この「はてな」のキーワードの説明にある「ホモソーシャル」よりもずっとライトなものだ。
それは日本の文化にわりと浸透していると思う。
小林賢太郎も、そういう意味ではホモソーシャルな作家だな。「女に笑いがとりにくいという言い方があるがそんなことはない」と、彼の「意識」は語っていたが、実際彼が女を使って面白くできたためしはない。
また、そうしたライトなホモソーシャルを眺めて女たちが喜ぶという文化も日本に存在する。宮藤・小林の人気の何パーセントかはそういう感覚に根ざしているだろう。
え? だからどうってことはない。
そう思っただけ。
あ。あとから思いついた。『マンハッタンラブストーリー』あれわりと女目立つ。まいいか。
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